見出し画像

8軒目:カフェ トロワ・シャンブル

下北沢南口商店街の坂を下り、三差路が見えたら右に入ってすぐのビル。木の看板には〈カフェ トロワ・シャンブル〉の文字。すぐ横の看板には「おいしいコーヒーをどうぞ・・・」とある。それを見た瞬間、どんなに忙しない日々を送っていても“たまにはのんびりコーヒーでも飲んでいくか”という気にさせられる。

階段を登り店内に入ると、そこかしこにアンティークランプが灯る昔ながらのカフェ。一枚板のカウンター席に、いくつかのテーブル席。新聞が数紙用意され、棚には美術書や美術関係の雑誌。それらを眺めながら落ち着いた時間を過ごすことができる。〈カフェ トロワ・シャンブル〉がこの場所に開かれたのは1980年のことだ。店主の松崎寛さんに、お話を伺った。

画像3

”3つの部屋”ができた頃。

「大学は卒業したんだけど、サラリーマンにはなりたくない。いずれは自分のお店でも持てるようになろうと喫茶店で働いていたんです。最初に働いた店はサイフォンでコーヒーを淹れていたんだけど、自分の好みはしっかりとした味でコクのあるネルドリップだから、やっぱりネルドリップのおいしい店で習おうと。それで当時から有名だった神田神保町の〈カフェ・トロワバグ〉に入りました」

松崎さんは〈カフェ・トロワバグ〉で3年間修行した後、いよいよ自分の喫茶店を持つべく物件を探す。その中で辿り着いたのが下北沢だった。

「ジャズ喫茶の〈マサコ〉とかに何度か来たことはあったけど、特に下北沢の街にこだわりがあった訳じゃないんですよ。小田急線と井の頭線の乗換駅で一日中ある程度人の行き来があって、商店街があって、学生街的雰囲気もあるから、それなりにお客さんが来てくれるんじゃないかなって。それでたまたま見つかったのが今の物件。店名は〈カフェ・トロワバグ〉の当時の社長につけてもらいました。“3つの部屋”という意味があるんです」

画像3

画像8

画像9


開店当時の下北沢は今と少し違い、賑やかな中にももう少し住宅街の雰囲気があったという。

「南口商店街も居酒屋が開く夕方以降は飲み客が多くなるけど、昼間は近所に住む人のための八百屋や魚屋、肉屋や米屋が開いていて、学生向けの安い食堂もある。いたって普通の商店街だったんです。ここ数年は空き店舗が出たらすぐ古着屋が出店していて驚いちゃいますよ。当時古着屋と言えば〈シカゴ〉ぐらいで、90年ぐらいから古着屋含めファッション関係のお店が急に増え始めましたよね」

おいしいコーヒーと、落ち着いた時間をどうぞ。


開店当時から、豆は高品質な生豆を長期間エイジングさせ焙煎した〈コクテール堂〉の物を使用。定番のブレンドはオールドビーンズを深く煎ったやや苦みのある「ニレ」と、浅めに煎った「カゼ」の二種類。いずれもネルドリップで時間をかけ丁寧に淹れられる。今はコロナ禍でもあり夜は早めに店を閉めるが、本来は朝から晩まで、フラッと訪れればおいしいコーヒーを飲みながら静かな時間を過ごせる貴重な場所。その雰囲気は40年間ずっと変わらない。

「だいたいの人はウチのことをわかって来てくれるけど、たまに何人かで来店して“チーズケーキだけでもいいですか?”とか“コーヒーフロートありますか?”なんて言われちゃうと少し面食らいますよね。ウチはあくまでコーヒーを楽しむ店であって、フードメニューはおまけのようなもの。フードだけの注文はお断りしているし、メニューに何でもあるお店にするつもりもないんです」

画像4


現在70歳。朝早く店に来て仕込みをし、そのまま開店準備。午前中いっぱいは自らコーヒーを淹れ、あとはスタッフに任せている。取材時、店の外にアルバイト募集の貼り紙があったが、その条件には「時間に余裕がありガツガツしていない近場の方」との一文が。そのあたりにも松崎さんの哲学のようなものがうかがえる。

「僕は頑張ったり、何かを成し遂げねばならないという考え方が嫌い。人間頑張りすぎるとロクなことがないと思っていて、無理せず自分が出来る範囲のことをやっていきたい。このお店もそんな感じで続けてきたんです。

開店当時、コーヒー一杯の値段は300円でした。その後2~3年おきに50円ずつ値上げしましたが、90年頃に550円になってからは30年余り、一度も値上げしていないんですよ。

周りはどんどん値上げしているし、中には一杯700円台のお店もある。でも“ちょっとコーヒー飲みたいな”って気分の時に出せるお金って、せいぜい500円ちょっとじゃないですか。それに世の中もバブル崩壊以降みんな給料が上がっていないでしょ?僕はこのお店が維持できるぐらいの稼ぎがあれば十分で、これで儲けようなんて一切思っていませんから(笑)」

画像8

画像7

この看板がお店の目印。アルバイト募集の張り紙にも注目。

無理をせず、淡々と。下北沢だから続けてこれた。


特に土地へのこだわりはなかったけど、長い間自分のペースでお店を営んできた街、下北沢。開店から40年が経ち、街への愛着のようなものは生まれたのだろうか。

「僕の性分もあるんだろうけど、元々外から入ってきたのもあって、いまだに下北沢を客観的に見てしまう部分があるんですよね……。でも40年変わらずお客さんが来てくれて、僕が無理をせず淡々とお店を営めるってことはいい街なんでしょう。新宿や渋谷はもちろん、吉祥寺でもこの店を続けるのは無理だった。下北沢特有の敷居の低さ、居心地の良さみたいのは変わらずにあるんじゃないかな。

小田急線の開発の件も長年喧々諤々やっていたけど、結果的に地下駅になったことで、今まで線路で分断されていた北口側と南口側が繋がって良かったと思いますよ。これで小田急まで高架になっていたら圧迫感が生まれて、全然雰囲気の違う街になったはずですよ」

チェーン系カフェも数多くある下北沢だが、その中にあって本物のネルドリップコーヒーを味わいに訪れる若い世代も増えている。

「それはありがたいことだし、あまり騒がしくしなければ好きに過ごして頂いていいんですけど、もう少しスマホばかり見ていないで僕らとコミュニケートしてくれればなって思いはありますね。苦いのが好きとか、あっさり目が好きとか。それならこっちの方がおすすめですよって、プロなりにアドバイスはできますから。そんなやりとりを通じて自分の本当の好みの一杯を見つけてくれると嬉しいですね」

画像6

ブレンドコーヒーとチーズケーキのセット 850円


【カフェ トロワ・シャンブル】
東京都世田谷区代沢5-36-14 2F
TEL 03-3419-6943
営業時間 9:30~23:00(通常時。緊急事態宣言発令中は20:00まで、状況に応じて変動あり)
全面喫煙可
不定休

画像10

写真/石原敦志 取材・文/黒田創 編集/木村俊介(散歩社)


画像11


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?