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「Sing, Sing, Sing」 preview special

涙がにじむ理由  Sing, Sing, Sing

 ようやくフェーズ2。2020年6月某日、外で飲食が解禁になる。よくランチを食べていたイタリアンに行ってみると、外の席に間隔をとって二人の客が座っていた。ドキドキしながら懐かしいウエイターの顔を探しに店に。
「久しぶり。元気?」
「おお(驚きの声)。元気ですよ。そちらは?」
「元気だよ。でも最近は流石にちょっと疲れてきたかな」
「そりゃそうですよ。どこでも、好きな場所へどうぞ」
 歩道に面した2席に均等に間を置いて座る二人の客から間隔をとって座るなり「ふ〜」安堵のため息が漏れる。懐かしく慣れ親しんだナプキン、水用グラスのセットの仕方、フォークとナイフ、お皿。止まっていた砂時計が一気にさらさらと流れ出す音がした。いつもグラスでハウスワインのキャンティを一杯頼む。そうすると今日いるこのウエイターの彼がなみなみに注いで持ってきてくれる。そして必ずこういうのだ。
「さて、何からスタートしますか、アイデアはおありですか?」
「スープは何がある?」
「レンティススープがありますが」
「うーん、野菜のスープってないのかな?」
「申し訳ありません。今日はレンティスだけになります」
「そうか、じゃいいや。いつものポモドロをスパゲッティで、辛くしてくれる?」「かしこまりました。アンティパストは、よろしいですよね?」
「うん、スパゲッティだけでいいや」
 久しぶりにこの会話をウエイターも「全く問題はございませんよ」と満面の笑みで楽しんでいるのがわかる。

 気持ちのいい風が通りから店の奥へと流れていく。せっかくおいしいご飯を提供しているのに有線の音楽がちょっと大きすぎるこの店の「いつも」が戻ってきた。
 いつものフォカッチャをいつものピスタチオペーストでいただく。少し目が慣れてくると外の席はもう一つ、歩道側の木のそばにも増席されていることに気がついた。街路樹の下でおいしいご飯とお酒が飲める、なんて粋なアイデア。フェーズ2はこんな素敵な贈り物を僕たちに用意してくれていた。次回はあそこだな。

 自宅で過ごす日々が始まって4カ月近い。でもこうやって午後一の光と風を感じながら大好きなポモドロを待てる幸せはパンデミックの前と何も変わらない。なんだかそれだけで涙が出てきた。しょっぱくてあったかい頬をつたう涙には感謝や覚悟が含まれる。生き抜いて今フェーズ2を迎えている。とてつもなく強くてシンプルな命を宿す僕がそこにいた。しばらくするとポモドロが運ばれてきた。バランスのいい盛り付けのお皿がトマトを調理した時にほのかに上がるバジルのフレッシュな香りとともにテーブルへ。
「チーズはおかけしますか?」
「もちろん」
「こんな感じでよろしいですか?」
「うん。ありがとう」
 口へ運ぶと懐かしい日々と新しい日々が交差する。
「お味の方はいかがで?」
「おいし、」途中まで言いかけて2本の親指をあげ「とてもいい」と頭を振る僕に、「そうでしょうとも」とでも言いたげな顔を厨房へ届けるウエイター。そういえば彼の名前を聞いたことがなかった。彼も僕の名前を知らない。
「サー。食後はあのいつものでよろしいでしょうか?」
「うん」
「コーヒーじゃない方のもので」
「うん、そっちで」
「かしこまりました」
 ほどなくダブルエスプレッソが目の前に置かれる。ブラウンシュガーの袋を破いて入れてかき混ぜる。ザラザラがカップの底に残るのを楽しみながらエスプレッソを「くいっ」と飲み干してみる。

 人は不思議な力を持っている。楽しい時間だけをつなぎ合わせて今の自分へ手繰り寄せることができる。ずっとこんな安らぎと安堵の時間を誰かに委ねることを待っていた自分が「にこっ」と笑った気がする。
「サー。漬けたばかりのレモンチェロ、召し上がりますか?」
「ええ? 本当に? もちろん」
「かしこまりました」
 前の男がピクッと反応するのがわかった。これこそ裏メニュー。きっと僕が去った後、彼もこの新鮮なレモンの皮とウオッカで作った酸味の効いたレモンチェロをペロッと舐めることになるだろう。
 店を出る前にシェフのダニエルと奥さんに感謝を伝えにいくと、変わらぬ渋い顔でダニエルは「よ!」と片手を上げてニヒルに微笑むだけだ。

 表に出ると午後の日差しは真夏のそれだった。ニューヨークは生き残った。僕らは力を合わせて生き残ることを選んできた。「涙がにじむ理由」は久しぶりのフェーズ2の外飯の嬉しさだけじゃない。明日が見えなくても僕らはきっと共に今日という日を生き切るだろう。ほんの少し見えた希望をみんなで勝ち取った「ニューヨーカーの誇り」に僕は敬礼していたのだ。


『マンハッタンに陽はまた昇る 69歳から始まる青春グラフィティ』より(C)Senri Oe 2021

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https://note.com/senrigarden/n/nfd62dd5d7596


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