見出し画像

考えるということ

考えるということとはなにか

まずパッと思いつくところでいうと、
それは深めるということ。
考えることで
物事に深みが出る。

一つの事象の見えてる部分と見えていない部分、その見えていない部分を見るために自分の目線を深めていく。

より深くからみることで、その物事に隠されていた本当の核を知ることができるのだ。

ただ、考えることが全て正義だとは思わないし、考えることで幸せになるわけではないと私は思う。

考えることで不幸になることもある。
それは、考えることで自分が傷つくことがあり、知らない方が良いこともあるからだ。

例えば、身近なところで言うと、
人間関係

相手が自分をどう思っているかを考えなければ、たとえ好かれていようが、嫌われていようが何も気づかないまま終わる

+-0だ。

けど、相手がどう思っているのかを考えて、調べていくうちに、自分のことを嫌っていると知る場合がある

そしたらそれはマイナスの事象だよね

知らぬが花という
言葉があるように。

他にも、
今ならウクライナのこと。
世界のどこかで誰かが苦しんでいる
それについて考えなければ、
考えを放棄したら、
いま僕の目の前に広がってる世界は
平和で安定したものだとすら思える。

ただ、
考える=知る
だとしたらそれは考えてない。
思考をしていない。
知る努力をする、調べる
と言うのも同じで、思考はしてない。
それらはイコールではない


考えると言うのは、
その現実に向き合う
と言うことなのかもしれない。

自分の目線を深め、
見えてないものをしり、
その事実と向き合う。

考えれば幸せになることはない
けど、大きくみて、
世の中は考えなければ悪くなる一方だろう。

見てみぬふりをするのは楽だろう
だけど、
この世の中をよりよくしていき、
次代に胸を張って世代を譲り渡せる
そんな生き方をしたいなら、

勇気を持って、
目線を深め、
みたくない現実をみなければならない

たとえその事実が自分と関係しなくとも、
誰かが苦しんでいるのなら、
その上に成り立ってる平和なんてのは偽物だから、
よりよくなるためにはどうすればいいかを考え向き合わなければいけない。

そして、深め、知ることは怖いことでもあって、
その事実を知った瞬間、
この先、自分は、自分が見てみぬふりをしていることを強く実感してしまうと言うことだ。

これまで視点を深めなければ、
見てみぬふりをしていることすら気づかず
罪悪感は感じずにすむ。

でも一度知ってしまえば、
その事実を知ったあかつきには、

自分が向き合わない限り、
そして、何か良くなるための行動をしない限り、
見て見ぬふりをしている実感から罪悪感が生まれるんだ。

ハリボテの平和を楽しめなくなる。

背負ってしまう。

背負っているものが多ければ多いほど、
自分は不幸になるだろう。
なぜなら重荷になるから。

そして、もっと言えば、考えた結果、
答えが出ない可能性もある

考えた末、答えが出たら、行動に移せばいいだけかもしれない。
しかし、
答えが出なければ、その課題は未解決の題材として、行動も起こせずただ自分の胸を侵食していく。
まるで葉を食べる虫のように
徐々に徐々に、
少しずつ胸を食らい尽くしていく。

考えると言うことは恐ろしいことだ。

答えが出たらその行動を続けなければならない。
答えが出なければ、答えが出るまで考え続けなければならない。

そうしなければ、考えた人は罪悪感から逃れられないんだ。

もし、この考えると言う行為に一筋の光があるとしたら、
それは未来だ、

全ては未来が良くなるための行動であるから、
自らの犠牲の果てに、今より少しいい未来を築くことができるかもしれない。

つまり結論は、

考えると言うことは、
自分を犠牲に、未来を少しよくするかもしれない行動なのだ。

もしかしたら我々は、先祖が自己犠牲をして、考えてきたから、今を生きているのかもしれない。

これから僕は、
考えると言う世界に飛び込む。
それだけの覚悟を持って。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?