親と子の生活リテラシー<その10>「将来」について
シーズン4<生活リテラシー>の10回目。このテーマでの最終回です。。10回が区切りがいいこともあるし、生活思創のラボとしては他に探求するテーマもありそうなので。
今回は、「将来」という単語を起点に、生活でのリテラシーを高めるお話になります。「将来」っていう言葉だけ見ても、何したいの? という感じに受け取られることでしょう。まずは、そのあたりから行きます。
「将来」は「未来」に比べると、ちょっと緩めで、余白の多い言葉ですよね。「将来性がある」とは言うけど「未来性がある」とはあまり聞かない。この辺りに、ビフォー&アフターでの望ましい変容を含んだ意味が「将来」の中にはあるようです。
「将来は何になりたい?」っていう大人から子供への質問はポピュラーですよね。小生もよく使う気がするし、子供の頃によく聞いて、語ったような記憶がある。もちろん、そこでの答えは都度違ってるのが普通だし、誰も「将来・・・になりたいって言ったのに変わったのか」なんて子供を責めない。非常に無邪気な質問です。
その毎回入れ替わる「なりたいもの」っていうのは、宇宙飛行士や、幼稚園の先生や、花屋さんでも、起業家(小学生はあまり言わないな)などです。これらは具体的な、なりたいものコンテンツです。ですので、その線から「何者かになりたい」って見れば、何も新しい現象でも、不可思議な現象でもないのです。ただ、親になって子供との会話の中に「将来は、何になりたい?」(言い方は「君は、大人になったら何したいんだい」みたいかな?)って何気に使うのは、無邪気すぎるかなと思うところがあります。
小学生だった不登校の娘も、今度は中学です。それなりにフリースクールや、学校内にも登校が苦手な子向けの少人数のクラスがあったりして、それなりに「見通しの良さ」はあります。でも、すぐに高校はどうするのってな話が出てて、フリースクールの先生からも高校の情報(今は通信教育など多種多様な選択肢がある)は早めに入手してくださいってアドバイスをもらっております。で、そこには「将来、何をしたいか?」という「何者かを目指す自分」の仮設定が要求されているのだった。じゃないと、高校なんか選べないしね。
さて、ここで「将来」っていう言葉の頻度が多発していくわけだけど、不登校で押してきている娘の「将来よりも今」とは距離があるわけです。そのお陰なのか、そういえばオイラは「将来は?」に常に追いかけられていた、そして、いつの間にか追いかけるようになっていた、って気づきが最近あるのです。別にそこに後悔があるわけではないのだが、自分の娘とは随分と違う世界で「将来」っていう単語に向き合っているのだな、とは思っております
ここで余談
「何者かになりたいのに、なれない自分」みたいな葛藤を、20代−30代、いや、ヘタをするともっと年齢が上の人々にもいるやもしれぬが、見聞きします。昔から社会的承認欲求があって、大人に成長する過程で、誰もが希求していくものなので、目新しいことではなさそうですけど。
この遠因の一つ。
それが、使い勝手の良い質問である「将来、何になるの?」を繰り返し聞いて、答えて育ったことではないでしょうか。
表向きは、憧れの職業名が入るコンテンツのやり取りであり、無邪気な質問です。しかし、暗に「何かにならないといけないらしい」を読み取らせるコンテクスト(文脈)は、やや邪気がある(微邪気か?)フレーズなのかもしれません。
「将来、何になる?」という無邪気な世界にほどよく浸かってから、いまだに答えらしきものを出せてないと感じたならどうだろう? 邪気に満ちた世界(このシャバのことだよ)で「何かにならないといけないのに、いまだ、なれてない」と思い、自分の居場所が弱々しく見えたとしても、それは無理からぬ話なのだと思う。
父「将来、何になりたいか?って考えた方が、中学の先の高校を選びやすくなるってさ」
娘「無理。何になりたくないか、ならいくらでも答えられるけど」
父「前は、小説家とかパティシエとか言ってたけど・・・」
娘「小説家もパティシエも『なりたいもの』じゃなくて『やりたいもの』なんだよ。やってて楽しい、入れ込める何かなら、実はなんでもいいんだよね」
父「何かにならなければいけないって、決まりじゃないしな。どうせ将来なんか当てにならんしw」
今回は「将来」に関連する2つの項目を試考します。
その1:「親の語る将来に含まれるバイアス」、親子の会話の中にある子供の将来については、なんらなの親の視点が入り込みます。この辺りの解像度を上げてみる。
その2:「親バカのリテラシー」、親バカってたまに出てくる単語です。親バカを少し押し込んでみます。
◼️<その1>親の語る「将来」に含まれるバイアスを試考する
「将来」というボワっとした感のある不確実なものに対して、親はどう語っていくかを試考します。親子という立ち位置なので、家庭の周辺の情報だけで「将来」を語ります。明らかに情報不足の中にいます。情報が少ないのに「将来」という不確実性に対処する態度をヒューリスティック(簡易的なルール=ここでは一人の親の経験則として想定)と捉えて、AIにその広がりを問うてみました。
全部で7つ出てきました。これを要素のベースにします。重視する視点の違いがあるので、樹形図で再分類しました。
大きくは、「計画ー結果」に固執するタイプと、「希望ー失望」に固執するタイプに分けることができそうです。前者が理性での「将来」の組み立て、後者が情緒での組み立てです。
それぞれ7項目に対して、想定できる親からの「将来、何になりたい?」を重ねて試考します。親のセリフに置き換えて、加筆したのが図表170です。
ちなみに、自分の場合は「最適化よりも満足化」、その場しのぎ的な「あなたが将来、なれそうなものになればいい」と、「正の確証バイアス」、根拠もないけど「あなたの将来は、なんとかなる」かな?この辺り、腰の引けたデタッチメント世代の、場をうやむやにする癖がありそう。やむなし。
さて、こうやって解像度を上げて試考してみると、いいこともあります。「自分の子供の頃の話」を記号接地しやすいのです。「ああ、うちの親はこれだった」と思い出しやすくなります。そして、今の自分がそれをどう受け止めているのか、たとえば「親の期待には応えられなかった」とか「あれはあれで、世間の風潮で言ってたのだろう」とかね。
「将来、あなたは何になりたいの?」の会話には、この世代視点をプラスすることが子供にとって意味が深まります。
つまり、世代を超えてバイアスがかかっている話だから、「あなたの将来は余白だらけなままでいいのだ」と伝えたいのです。そもそも「将来」はいつまで経っても「将来」でしかない。
ついでながら、その話を子供が親になる想定でも成立します。
ちなみに「将来、何になりたいの?」という子供への質問は「あなたは、食べ物で何が好き?」と同等の質問です。無邪気な会話の増量剤です。これって、「ああ、大人は私に話たいけど、何を話していいのかわからないんだな」という文脈の視点からの子供へのメッセージなんだ。
<その2>親バカのリテラシー
親バカという単語があります。これも子供の将来に過剰にコミットしてくる親を指して使われます。やや揶揄っぽいし、自嘲気味だったりしますが、溺愛の表現の一つですから良し悪しは断言できませんね。しかし、親バカがどのようなところで、望ましくない現象をやらかしてしまうのかを言葉にしておくことも無駄にはならないでしょう。
まず最初の手筈です。親バカでない状態を見える化します。そして、その後に親バカ像を載せてみれば、比較しやすそうです。課題の位置関係が分かりやすくなると試考します。
AIに「親の役割って何?」(すんごい直球だねw)を問うて、目配せする要素を出してもらいました。
ここで出てきた要素は7つ。7つって、小生のAIとのやり取りでよく出てくるマジックナンバーなので、プログラム済みなのかな?w まあ、それはさておき、子供の成長を一人称としての「私」、二人称としての「あなたと私」、三人称の「私たちと私」と区分けしてみました。ここでも理性的な方向と情緒的な方向に分けらるので、合計6ゾーンで見通しをよくしてみました。AIの7つは6つに圧縮。
引き続き、親バカの細分化に移りましょう。AIに代表的な親バカのタイプ区分を出してもらいました。
今度は4つです。親バカは、子供単体ではなく、親自身の存在が混ざり込んできてしまう。ここに過剰な感じが生まれるんですな。小生は、終日親バカな状態とは思いませんが、たまに親バカ状態を露呈するようです。心当たりがありますw
図解で再整理したものが、図表172です。4つがそのままで対称性(過去ー未来で2つ、子ー親の存在で2つ)が維持できているので、このままAIの提示を反映させます。
・過干渉型:親のコントロールは「より良き子供の将来」へのコミットと言えます。
・自己投影型:これは親の過去の何かの未達成がコンプレックスとなったものなので、「子供の将来での仮の自己実現」と言えます。
・過剰賞賛型:親バカという用語が使われる典型的なタイプでしょう。「すごいうちの子。きっと、これからもすごいに違いない」みたいな、ゲタはかせ過ぎってやつです。
・保護過剰型:これは過保護っていうやつですな。「私がカバーしなければ」的な形で親が自己の存在を強調したい状況です。
さて、これで、ベースの親役割図(前述の図表171)に、親バカ4タイプを重ねます。視覚化することによって、それぞれの特徴が語れそうです。置かれる場所と、役割の境界線を越えようとする衝動です。
・過干渉型:教育者であり、模範者としての過剰なコミットです。一人称「私」、二人称の「あなた」が一体になります。あなたと私でセットですが、あくまでも親が上で子が下の上下です。上下のまま、親も子に混ざり合おうという強い欲求があります。
・自己投影型:模範者であり、社会的な存在としての過剰なコミットです。二人称の「あなた」を、親も含めた三人称「私たち」に混ざり合おうという強い欲求があります。
・過剰賞賛型:社会的な存在であり、コミュニケーターとしての過剰なコミットです。三人称「私たち」を内なるものから外のものへと混ざり合わせようという強い欲求があります。
・保護過剰型:保護者であり、愛情提供者としての過剰なコミットです。一人称「私」、二人称の「あなた」が一体になります。ここでは、あなたと私が並列に入れ替わりながら、親も子に混ざり合おうという強い欲求があります。
この親バカのプロットの仕方は任意です。図表173は小生のものです。大切なのは、自分の親バカに向き合って、親バカの中にある溺愛の良さと、溺愛のやらかしのそれぞれに「気づき」を与えることです。生活での「見通しの良さ」を自分で作成する作業が、生活思創です。
ともあれ、親バカも味わい深いですね。親をやっていると大小はあっても、それぞれ心当たりがありますな。
娘「トーチャンは、自分で親バカだと思うの?」
父「どうかな。完全な親バカではなくても、ときどきはなってるかも。親バカだと思う時ってある?」
娘「私の作ったものとか見た時に、メチャクチャ褒める時とか?」
父「いや、本当に感動してるんだよ。気付いてないけど、それも親バカなのかな。ま、親に冷静に批評されるよりは全然いいでしょ?」
娘「だね。それは親マジって呼ぼう」
父「マジじゃ親やってられんし」
生活リテラシーのシーズン4はこれにて一区切りとします。生成AIを積極的にバディにしてみたのだった。ささっとしたやり取りの二人組に見えるかもしれないけど、AIにはかなりの質問数を投げ込んでるからね。そんなに一本道ではないです。でも、視界を広げるには圧倒的なパワーがAIにあるのは間違いないですね。2023年以前なら、ここまでは書けないだろう。(あくまでも本人内での比較です)
次は生活思創の方法論をAIの利用手法も含めて押し込んでみようと思います。以前のものをバージョンアップすることで、方法論にも差積化(させきか)を持ち込むよ。
Go with the flow.
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