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「桶狭間の戦い」-「影武者説」と「遭遇説」-

1.はじめに


 「桶狭間の戦い」に関する私の主張は、何度も書いてるように、

 ──「桶狭間の戦い」ではなく、「鳴海桶狭間の戦い」

なんですが、戦国マニアさんたちが注目しているのは、そこではなく、

①「桶狭間」は名古屋市か、豊明市か
②「迂回奇襲説」か、「正面攻撃説」か

ですね。

 今回は、「影武者説」(「鳴海の戦い」)と「遭遇説」(「桶狭間」は第三の地)のご紹介です。

「桶狭間の戦い」については、「『信長公記』だけが正しく、他書は尾ひれの付いた物語」とされていますので、まずは、『信長公記』を読んでみましょう。

※『信長公記』第39話「今川義元討死の事」
https://note.mu/senmi/n/nd7f28bfc3ed9

要旨は、

①今川義元、桶狭間山着陣。「丸根、鷲津砦を落とした」と聞いて上機嫌。
②織田信長、善照寺砦着陣。
③佐々隊&千秋隊が討ち取られ、今川義元、上機嫌(「鳴海の戦い」)。
④織田信長、中島砦へ移動。名演説をして中島砦から出陣。
⑤正午、織田信長が「山際」まで移動すると、暴風雨になる。
⑥午後2時、今川義元本陣をピンポイント攻撃(「桶狭間の戦い」)。
⑦今川義元、退却中に討たれる。

となります。

『信長公記』と他書との違いは、

①佐々政次の扱い
②梁田政綱の扱い

であり、

 ──佐々政次の動向に注目して生まれたのが「影武者説」
 ──梁田政綱の動向に注目して生まれたのが「遭遇説」

になります。

(1)佐々政次の扱い


佐々政次について、『信長公記』は、

 信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎、二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で候へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。
 是れを見て、「義元が矛先には、天魔、鬼神も忍べからず。心地はよし」と、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。
 信長御覧じて、「中島へ御移り候はん」と候つるを、「脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なき」の由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候。

としています。現代語に訳せば、

 織田信長が善照寺砦に着いたのを見て、佐々政次と千秋季忠の2人は、約300人を率いて、(漆山仮本陣にいた?)今川義元に向って、足取り軽く挑むと、今川軍の先鋒(実際は鳴海城の城兵?)がどっと攻めてきて、佐々政次と千秋季忠をはじめとして、約50人が討ち取られた。
 これを(鳴海村は、桶狭間山の本陣からは見えないので、漆山の仮本陣で?)見た今川義元は、「義元が矛先(今川軍の先鋒)には、天魔も鬼神も耐え忍ぶことが出来ない。気持ちが良い」と、喜び、悠々と謡を謡わせ、本陣(漆山仮本陣?)にいた。
 織田信長は、「鳴海村の戦い」の敗戦(佐々隊や千秋隊の敗戦)を(善照寺砦で)見て、いてもたってもいられず「(山頂の善照寺から山麓の)中島砦へ移る」と言うと、家老衆(注)は、「中島砦への道の両脇は深田で足をとられて身動きできなくなるので入れない(横に広がっては歩けば、深田に入らざるを得ないないので無理で、)縦一列で歩く「一騎打ちの道」となるから、敵(今川軍)は簡単に味方(織田軍)の兵数を数えることが出来る。それでは、敵に、味方が無勢(2000人弱)であることが明確にばれてしまうので、もってのほかである」と、馬の轡(くつわ)の引手に取り付いて、それぞれが言って止めたのであるが、織田信長は、振り切って中島砦へ移った。この時の織田軍の兵数は、2000人弱であった。

(注)織田信長を止めた人物
・太田牛一『信長記』:林、平手、池田、長谷川、安井、蜂屋
・小瀬甫庵『信長記』:林秀貞、池田恒興、毛利良勝、柴田勝家

となり、「『信長公記』だけが100%正しい」とする学者は、

 ──中島砦にいた千秋季忠と佐々政次は、織田信長が善照寺砦へ着いたのを見て、いいところを見せようとして、織田信長の命令を待たず、「先駆け」し、無駄死にした。

としています。「先駆け」は「抜け駆け」であり、軍法違反で、処罰されますから、普通はしません。それに、他書では、千秋季忠と佐々政次は、善照寺砦にいて、織田信長の許可を得て、善照寺砦から出陣したことになっています。

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 そもそも千秋季忠は氷上砦、佐々政次は正光寺砦(共に大高城の南の砦)にいたはずで、当日の朝、300人を率いて星崎まで出陣して織田信長が通るのを待ち、合流して善照寺砦に入ったと思われますが、『信長公記』では、

 ──大高之南、大野、小河衆被置。(大高城の南の砦に大野衆、緒川衆(水野信元)を入れ置かれた。)

としています。(氷上砦は、元熱田・氷上姉子神社ですから、熱田大宮司・千秋季忠が入っていたはずです。ちなみに、桶狭間は、水野信元の家臣・中山勝時の領地です。)

(2)梁田政綱の扱い


 織田信長は、家臣の梁田政綱を地百姓(地元の農民)に変装させ、今川義元の位置を逐一報告させました。それで、今川義元へのピンポイント攻撃が可能となり、今川義元を討つことができたと考えられます。その証拠に、戦後、梁田政綱には、最大の功労賞(沓掛城と3000貫文)が与えられたと他書に書かれています。

 ところが、『信長公記』には梁田政綱が登場しないばかりか、梁田政綱が織田信長にした報告「あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり」(今川軍は疲れているが、織田軍は元気)が織田信長の名演説として書かれ、学者は、「今川本隊は沓掛城から出陣してきたばかりで、疲れてはいない」として、

 ──桶狭間の勝利は、織田信長の勘違いから始まった。

としています。

 また、他書によれば、梁田政綱は、今川義元の位置について「今川軍の後陣は先陣となり、今の後陣に今川義元がいる」と報告しています。

 さらに、豊明市の「桶狭間古戦場」を国指定史跡に認定する時、まったがかかりました。「桶狭間は3ヶ所ある」というので、急遽調査し、結局、「国指定 桶狭間古戦場伝承地」となりました。3つめの桶狭間とは? 

詳しく調べてみました。

2.佐々政次と「影武者説」


佐々政次の動向については、小瀬甫庵『信長記』には、

 ──佐々隼人正、千秋四郎は、御紋の旗を待ちうけ、見るとひとしく、義元が先陣の勢、山際に引へたるに、面も振らず懸け入りて、北より南、西より東、懸け破り、懸け通り切つ、切られつ、散々に戦ひけるが、遂に、二人なかを討たれければ(後略)

と太田牛一『信長公記』よりは詳しく書かれていますが、やはり、「織田信長(の旗)が善照寺砦に入ると同時に、山際に引いた今川軍の先鋒に挑んで討ち取られた」としています。

※小瀬甫庵『信長記』は、太田牛一『信長公記』を基にして書かれた本ですが、上記の「(注)織田信長を止めた人物」を見ても分かるように、全く同じ事が書かれているわけではありません。

 後世の物語では、「旗を待ち」が「旗を持ち」、さらには「織田信長の兜を貰い受け」になります。つまり、佐々政次は、善照寺砦にいて、織田信長が来ると、織田信長に変装し、織田木瓜(おだもっこう。「木瓜(キュウリ)の断面」ではなく「窠」(鳥の巣)で、神社の御簾の帽額(もこう)に使われた文様)の旗を持ち、「我こそは織田信長なり」と叫び、今川軍が佐々政次に向かっている隙きに、織田信長は、善照寺砦から中島砦に移ったとしています。

 ──信長の大先手は、佐々隼人正正道、千秋四郎大夫良文、信長の瓜紋の旗、差し揚げて向ふ。(『中古日本治乱記』)
 ──信長の窠の紋の旗、真先に立て、進みたる。(『改正三河後風土記』)

 佐々政次は、「囮(おとり)」となって織田信長が善照寺砦から中島砦に移る安全を確保しただけだと思われますが、織田信長の兜をかぶり、旗を持って「影武者」となり、その佐々政次を討ち取ると、今川軍は、「織田信長を討ち取った。戦は終わった。勝った」として、今川義元は宴会を始め、今川軍は、鳴海村で分捕り(乱取り、略奪)を始めました。これが午前中の「鳴海の戦い」の真実だとするのが、「影武者説」です。

 しかし、これは戦(いくさ)の前半に過ぎません。後半は午後の桶狭間村での「桶狭間の戦い」になります。


 織田信長は、中島砦で有名な演説をして、出陣しました。

各よくよく承り候へ。
①あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。
②『運は天にあり』。此の語は知らざるや。
③懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是に於いては、ひ稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。
④分捕なすべからず。打ち捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし

 ①は、学者は「織田信長の誤解」としていますが、他書では「梁田政綱が織田信長にした報告」としています。実際、中島砦の目の前の諏訪山にいる今川軍朝比奈隊は、そういう人たちであり、誤解ではありません。(小瀬甫庵『信長記』を「嘘が多い」と批判している大久保彦左衛門は、著書『三河物語』において、「松平隊の大高城兵粮入れ」は、2年前の永禄元年(1558年)の話であり、今回は、今川軍全員で大高城へ兵粮入れし、今川義元は大高城にいたとしています。これが正しければ、「織田信長の誤解」ではありません。)
 ②戦国武将が信仰した宗教は、仏教、神道、修験道、天道の4つでした。(キリシタンにとってはキリスト教。)「運は天にあり」にありという天道思想の言葉は、徳川家康が、三方原に出陣する時にも言っています。(織田信長の援軍は、「徳川家康め、織田信長様と同じ事、言ってらぁ」と思ったことでしょう。徳川家康と織田信長の違いは、桶狭間のように起伏や深田のあるところで戦わず、三方原という何もない平原で戦って負けたことです。)
 ③浮かれている今川軍の隙を突けば、今川軍は慌てて逃げ出す。そこを追いかけて討つのは簡単。(今川軍は、国衆の連合軍で、織田軍馬廻り衆のように、織田信長の指揮のもとに一致団結していない。織田信長が今川本陣を襲ってきたので騒いだところ、今川義元は、「騒いでいる。きっと、いつもの(今川軍同士の)喧嘩が始まったのであろう」と思ったという。)
 「今川本陣=漆山説」の論者が、現地へ行ったら、「漆山では、織田信長がいた中島砦から近すぎる」として、「今川本陣=高取山説」に変えたそうです。変えなくてもいいかと。今川義元は、漆山の仮本陣にいて、織田信長が中島砦に入ると「近すぎる」と感じて、桶狭間山の本陣へ敵に背を向けて戻っていったのを「逃げる」とし、「逃げる敵を討つのは容易い」と言ったのが、この言葉かと。
 ④「分捕なすべからず。打ち捨てになすべし」は、解説書には、「敵を倒しても首をはねるな。そのまま捨て置け」とあります。この「分捕り」は、今川軍が鳴海村で今やってること、「家の名誉」は、佐々政次の戦い方と死に様を指していると思われるので、私は、「敵を倒しても武具を奪うな。(今川領に攻め入って勝ったのであれば、褒美として奪った土地をあげられるが、今回は自領に攻め込まれたので、勝っても土地をあげられない。だから、「何か得るものがなければ」と)武具を取っているようではだめだ。前へ進め。そして、「何か得るもの」とは、「名誉」だ」と訳してみました。
 「分捕り」した物が首にしろ、武具にしろ、そんな物を持っていたら戦えません。「そういうことは、全てが終わってから(今川軍が逃げ始めてから)にしろ」(逃げる敵を追って分捕るのは容易い事)という事でしょう。
 敵は20000~45000、味方は2000。味方の2000人が1対1で戦って、敵2000人の首をとったところで、まだ敵は数万人いるわけですから、1人倒して「ノルマ達成」ではないです。1人倒して首を切り落としている場合では無いです。
 ようするに、「狙うは義元の首1つ」であって、それ以外ものは無視して戦えってことです。

 ちなみに、道家祖看(道家尾張守の末子)が、織田信長の家臣であった父・道家尾張守(「織田信長公三十六功臣」の1人)に聞いたところ、佐々政次は星崎で織田信長を出迎え、次のように言ったそうです。

 ──星先面に控へたる佐々下野守(正次)、三百余りにて、六万余騎の押へえを仕候者、信長に出迎ひ、「某(それがし)一人なりとも、今川と組み、打ち死にせん」と巧(たくら)み申すに、さても妙なる御出なり。「某、命を捨て候はば、今日の合戦に御勝ち候事必定なり。今日、天下分け目の合戦、是れなり。天下を治め給ひ候時、弟・内蔵佐(成正)、我等倅を御見捨てさせ給はで」とて、「我々は東向きに今川旗本へ乱れ入るべし。殿は脇槍に御向かひ、鉄砲、弓も打ち捨て、唯、無体に打って懸からせ給ひ候」とて、押し向ふ。(『道家祖看記』)
※星先面(ほしざきおもて)=星崎表。愛知県名古屋市南区星崎。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771444/174

ようするに、佐々政次は「家の名誉」のために戦い、「自分の死後は、弟と息子を頼む」と「家の存続と繁栄」と頼んで死んでいったのです。

※佐々政次(正光寺砦)と千秋季忠(氷上砦)が先鋒を申し出たのは、織田信長が両砦に入れた大野衆と緒川衆が逃げ出したので、その責任を感じてのことだとも。

 さて、「影武者説」の大前提は、「今川義元が織田信長の顔を知らなかったので、佐々政次の首を織田信長の首だと思った」ですが、本当に今川義元は、織田信長の顔を知らなかったのでしょうか?
 『豊明市史』の付録「桶狭間の戦いQ&A集」には、
Q:今川義元は織田信長の顔を知っていたか? A:No.
Q:織田信長は今川義元の顔を知っていたか? A:No.(桑原甚内が知っていたとも。)
とあります。
 いえいえ、『信長公記』第27話「武衛様と吉良殿と御参会の事」の解釈が間違いであったとしても、顔を知っていたはずです。
 というのは、『信長公記』に、次のように書かれているからです。

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