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『信長公記』「首巻」を読む 第27話「武衛様と吉良殿と御参会の事」

第27話「武衛様と吉良殿と御参会の事」

一、清洲の並び三十町隔て、おり津の郷に、正眼寺とて、会下寺あり。然るべき構への地なり。上郡岩倉より「取出に仕るべき」の由、風説これあり。これに依り、清洲の町人どもかり出し、正眼寺の藪を切り払ひ候はんの由にて、御人数出だされ候へば、町人どかずへ見申し候へば、馬上八十三騎ならでは御座なく候と申し候。御敵方より人数を出だし、たん原野に三千計備へ候。其の時、信長かけまはし、町人どもに竹やりをもたせ、御後をくろめさせられ候て、足軽を出だし、あひしらひ給ふ。さて、互に御人数打ち納められ、ケ様に取合ひ半ばの内、

一、四月上句、三川国吉良殿と武衛様、御無事御参会の扱ひ、駿河より吉良殿を取り持ち、相調へ候て、武衛様御伴に、上総介殿御出陣。三州の内、上野原に於いて、互に人数立て備へ、其の間、一町五段には過ぐべからず。申すに及ぱず、一方には武衛様、一方には吉良殿、床木に腰をかけ、御位のあらそひと相聞こえ、十足計り宛双方より真中へ運び出だされ、別の御品も御座なく、又、御本座に御直り候なり。さて、それより御人数御引取り候なり。

一、武衛様国主と崇め申され、清洲の城渡し進ぜられ、信長は北矢蔵へ御隠居候ひしなり。

【現代語訳】

一、清洲の隣、30町(3.3km)隔てた「下津(おりつ)郷」(通説では愛知県稲沢市下津(おりづ)町であるが、中島郡下津村、現在の愛知県一宮市丹陽町であろう)に、正眼寺(度重なる五条川の氾濫により、元禄2年(1689年)、現在地(愛知県小牧市三ッ渕)に移転)という「会下(えげ)寺」(修行僧が集まる寺)ある。それなりの天然の要害の地である。「正眼寺を尾張国上4郡の守護代である岩倉城主・織田信安が占領して砦にする」という噂が流れた。この噂を聞いた織田信長は、「清洲の町人たちを招集して、(敵が隠れられないように)正眼寺の藪を切り払ってしまおう」と言い、町人たちを守る軍隊を用意したのであるが(兵が集まらず)町人たちが数えたところによると、たった83騎であった。敵は、「たん原野」に約3000人を配備した。その時、織田信長は、あちこち駆け回って町人たちを集め、竹槍を持たせ、背後を「黒め」(「黒める」は、「上手く騙す、誤魔化す」。ここでは、「多くの兵がいるように見せかけて」)、足軽に攻めさせて、敵をあしらった。そして、互に軍隊を引いた。

この様に戦っていた時、

一、弘治2年(1556年)4月上句、三河国守護・吉良義昭と尾張国守護・斯波義銀が無事に(友好的に)参会(会見)することが、駿河国の今川義元の斡旋で決まった。今川義元は吉良義昭を補佐し、斯波義銀には織田信長が同伴することになった。三河国内の上野原(愛知県豊田市上野町)に、双方が陣を敷いた。双方の間隔は、1町5段(約160m)もなかった。言うまでもなく、一方には斯波義銀、もう一方には吉良義昭が床几に腰かけた。
 会見の目的は、「御位の争い」(両守護の序列関係)とされ、双方から約10歩、中央に進み、別に何事も無く、また、元の場所へ戻り、双方とも陣を解いて引きあげた。

一、織田信長は、斯波義銀を尾張国の国主と崇め、清洲城(の守護宅)を渡し、自分は清州城の北櫓へ入って隠居した。

【解説】

 一応、訳してみましたが、第二段落が意味不明ですね。

 第一段落は、「岩倉城主・織田信安が正眼寺を砦化しようとしている」と聞いた織田信長が、たった82人で行くと、敵がずら~っと3000人! 織田信長は、このピンチに町人に竹槍を持たせてずら~っと並べ、お互い見合って、見合って・・・互いに退却~。岩倉側が攻めてきたら、織田信長は死んで、歴史が変わってたよ。
 「たん原野」がどこだか分からないというのは、正眼寺を一宮市丹陽町の寺ではなく、稲沢市下津町の寺だと考えているからでしょう。ただ、「出だし、たん原野に」は、「出だしたり。原野に」の間違いのような気もするけどね。相手は遮るものがない原野に居るから3000人と数えられる。こちらは正眼寺の藪の中に何人隠れているか分からない不気味な雰囲気。

 第二段落の意味が分からないのは、誤訳だからでしょう。「織田信長&斯波義銀 vs 今川義元&吉良義昭」って・・・「織田信長と今川義元の休戦調停」って解説書もあるけど、ない、ない。そもそも斯波義銀と吉良義昭は仲が悪くない(第29話「吉良・石橋・武衛三人、御国追出しの事」にあるように、結託して織田信長を排除しようと企んでます)から、今川義元が仲介する必要はないし、「桶狭間の戦い」の本を読んでいたら、「織田信長と今川義元は、お互いに会ったことがなく、お互いの顔を知らなかった」と書いてあったよ。
 どこが誤訳かと言うと、
 ──駿河より吉良殿を取り持ち
だね。「駿河殿」であれば、今川義元だけど、そうじゃない。
 軍師・太原雪斎が亡くなると、吉良義昭は、三河国での権力を回復しようとして、織田信長に接近しました。(弘治年間の三河勢の反今川化による戦いの総称を「弘治合戦」といいます。)
・弘治2年3月25日、吉良義昭に会おうとして三河国に入った織田信長は、野寺原(安城市野寺町野寺)で、今川方の松井忠次と合戦
・弘治2年4月、西尾城の吉良義昭は、織田信長に会い、東条城に移る。
・弘治2年4月15日、善明堤(西尾市吉良町岡山)で、吉良義昭が今川方の松平好景(『家忠日記』の作者・松平家忠(弘治元年生誕)の祖父)と合戦(通説は永禄4年)
 つまり、「駿河より吉良殿を取り持ち」は、「駿河方だった吉良義昭を織田信長方に引き込むことだできたので」が正しい訳で、既に織田信長方に引き込んでいた斯波義銀と吉良義昭を織田信長が仲介しての会見が実現したのであって、今川義元は登場しません。
 それにしても、お互い見合って、見合って・・・10歩前に出て、互いに退却~って面白い会見方法だね。
 ちなみに、足利一族の序列は、『今川記』に「等持院殿(足利尊氏)御遺書に、御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぎ」とあるよ。

 足利>吉良>今川>>斯波、畠山

 あと、「4月上旬」とあるだけで、年が分かりません。
天文24年(1555年)4月上旬説:吉良義昭が今川方から離反する前
・天文24年10月23日 「弘治」に改元
・弘治2年3月25日 野寺原の戦い
・弘治2年4月 吉良義昭、東城城へ移動
弘治2年(1556年)4月上旬説←今回採用した説
・弘治2年4月15日 「善明堤の戦い」(通説では永禄4年)
①『松平記』に「善明堤の戦い」は弘治2年とある。
②『養寿寺本吉良系図』の「義安」の項に弘治2年とある。
③松平家忠『家忠日記』の天正6年3月4日条に、祖父・松平好景の23回忌の記事。逆算すると弘治2年の没となる。
弘治3年(1557年)4月上旬説

第三段落は、
・武衛様国主と崇め申され=成長した岩龍丸を元服させて「斯波義銀」と名乗らせ、尾張国守護と認めて平伏し
・清洲の城渡し進ぜられ=那古野城の天王坊から、清州城の守護邸に移し、
・信長は北矢蔵へ御隠居候ひしなり=織田信長は隠居して(守護職代理を解任されて)清州城の北櫓に入った。
ですね。「櫓」は「矢蔵」で、弓などの武具の倉庫のイメージですが、将来、この「櫓」が発展して「天守」になることを考えると、それなりの居住空間かと思われます。高くて景色もいいし、風通しがよく、湿度も低い。

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