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『信長公記』「首巻」を読む 第39話「今川義元討死の事」

第39話「今川義元討死の事」

■永禄3年5月17日


一、今川義元沓懸へ参陣。

【現代語訳】 今川義元が沓掛城(沓掛城)に着いた。

■永禄3年5月18日


 「十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定」と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学、織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談までにて、既に「深更に及ぶの問、帰宅候へ」と、御暇下さる。家老の衆申す様、「運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なり」と、各嘲弄して、罷り帰られ候。

【現代語訳】 「5月18日、夜になったら、大高城(愛知県名古屋市緑区大高町城山)へ兵粮を入れ、5月19日の朝、織田信長が潮が満ちて援軍を送れないように、潮の満ち干の時間を考えて、大高城の周囲の丸根砦や鷲津砦を破壊する」という確かな情報を掴んだと、5月18日の夕方、丸根砦の佐久間盛重と、鷲津砦の織田秀敏が、清洲城の織田信長に報告した。
 しかし、その夜(5月18日の夜)の会合では、合戦の作戦の話は全く無く、色々と世間話をしただけで、「夜も更けてきたので、帰られよ」とのことであった。家老衆は、「『運が尽きる時には智慧の鏡が曇る』とは、このことである」と各々嘲弄(ちょうろう。あざけり、からかうこと)して、帰った。

■永禄3年5月19日朝

 案の如く、夜明がたに、佐久間大学、織田玄蕃かたより、「はや鷲津山、丸根山へ人数取りかけ候」由、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ぱし候。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」とて、「螺ふけ。具足よこせ」と、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。
 其の時の御伴には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、是等、主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へぱ、鷲津、丸根落去と覚しくて、煙上り候。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。
 浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で候て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵・今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。

【現代語訳】 昨日掴んだ情報(今川軍は、5月18日、夜になったら、大高城へ兵粮を入れ、5月19日の朝、織田信長が潮が満ちて援軍を送れないように、潮の満ち干の時間を考えて、大高城の周囲の丸根砦や鷲津砦を破壊する)の通りとなった。夜明方に、丸根砦の佐久間盛重と、鷲津砦の織田秀敏より、「早くも今川軍は、鷲津砦と丸根砦への攻撃を始めた」との報告が清洲城に届いた。この時、織田信長は、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか」と『敦盛』を舞い、「出陣の合図の法螺貝を吹け。具足(甲冑)をよこせ」と言い、具足を身に着け、立ったまま朝食をとり、兜をかぶって、出陣した。
 その時の御伴は、御小姓衆の岩室長門守重休、長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守、加藤弥三郎(岩室重休死後に婿となり岩室勘右衛門と改名)、主従6騎であった。熱田までの3里(12km)を休むこと無く、一気に駆けて、辰の刻(午前8時前後)に(熱田社の南、伊勢湾岸にある)源大夫殿宮(上知我麻神社)の前から東(誤り。正確には「南東」)を見ると、鷲津砦と丸根砦は焼け落ちたらしく、煙が上っていた。この時の織田軍の総数は、騎馬の将騎6人と、雑兵約200人であった。
 熱田から「鎌倉街道下ノ道」(海岸沿いの道)を進めば、鷲津砦や丸根砦へは近いが、(今川軍の計算通り)潮が満ちていて、通れない(救援に行けない)ので、熱田から「鎌倉街道上ノ道」を飛ばしに飛ばして丹下砦(愛知県名古屋市緑区鳴海町清水寺)へ。さらに進んで、佐久間信盛・信直兄弟に守らせている善照寺砦(愛知県名古屋市緑区鳴海町砦)へ行き、兵を集め、隊列を整えて、戦況を見た。敵・今川義元は、45000人を率いて、桶狭間山で人も馬も休めていた。

■永禄3年5月19日正午

 天文廿一壬子五月十九日午の剋、戌亥に向つて人数を備へ、鷲津、丸根攻め落し、「満足これに過ぐべからざる」の由にて、謡を三番うたはせられたる由に候。
 今度、家康は朱武者にて、先懸をさせられて、大高へ兵粮入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。
 信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎、二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で候へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候。
 是れを見て、「義元が矛先には、天魔、鬼神も忍べからず。心地はよし」と、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ候。
 信長御覧じて、「中島へ御移り候はん」と候つるを、「脇は深田の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え候。勿体なき」の由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き候て、声々に申され候へども、ふり切つて中島へ御移り候。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し候。

【現代語訳】 5月19日の午の刻(正午前後)、今川義元は、本陣から戌亥(北西)に向けて軍隊を配備し、午前中に鷲津砦と丸根砦を攻め落したので、「非常に満足である」として、謡(うたい)を3番、謡わせた。
 今回の「桶狭間の戦い」では、徳川家康は朱武者で(赤い鎧で身を固め)にて、先陣として、(昨夜に)大高城へ兵粮を入れ、(今朝は)鷲津、丸根砦を攻め、疲れて大高城で人も馬も休んでいた。
 織田信長が善照寺砦に着いたのを見て、佐々政次と千秋季忠の2人は、約300人を率いて、今川義元に向って、足軽に(足取り軽く)挑むと、今川軍の先鋒がどっと押し寄せてきて、千秋季忠、佐々政次ら約50人が討ち取られた。
 これを見た今川義元は、「義元が矛先(今川軍の先鋒)には、天魔も鬼神も耐え忍ぶことが出来ない。気持ちが良い」と、喜び、悠々と謡を謡わせ、本陣にいた。
 織田信長は、佐々隊や千秋隊が残敗したのを見て、いてもたってもいられず「(山頂の善照寺から山麓の)中島砦(愛知県名古屋市緑区鳴海町下中)へ移る」と言うと、家老衆は、「中島砦への道の両脇は深田で足をとられるので、横に広がっては歩けない。縦一列で歩く「一騎打ちの道」であるから、簡単に兵数を数えることが出来る。それでは、敵(今川軍)に、味方(織田軍)が無勢(2000人弱)であることが明確にばれてしまうので、もってのほかである」と、馬の轡(くつわ)の引手に取り付いて、それぞれが言って止めたのであるが、織田信長は、振り切って中島砦へ移った。この時の織田軍の兵数は、2000人弱であった。

■永禄3年5月19日昼すぎ

 中島より又、御人数出だされ候。
 今度は無理にすがり付き、止め申され候へども、爰にての御諚は、「各よくよく承り候へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。『運は天にあり』。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是に於いては、ひ稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打ち捨てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべし」と、御諚のところに、前田又左衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、右の衆、手に手に頸を取り持ち参られ候。
 右の趣、一々仰せ聞かれ、山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、「熱田大明神の神軍か」と申し候なり。
 空晴るゝを御覧じ、信長、鎗をおつ取つて、大音声を上げて、「すは、かゝれ、かゝれ」と仰せられ、黒煙立て懸かるを見て、水をまくるが如く、後ろへくはつと崩れなり。弓、鎗、鉄炮、のぼり、さし物等を乱すに異ならず、今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり。

【現代語訳】 織田信長は、善照寺砦から中島砦に移っただけではなく、さらに中島砦から出陣するという。
 もう正気の沙汰では無い。「今度こそは何としても止めねば」と、家老衆は、織田信長にすがり付いたが、織田信長は次のように言って、軍の士気を高め、出陣した。
「皆の者、よく聞け。あそこにいる今川軍は、夕食を食べて腹ごしらえをし、徹夜で大高城へ兵粮を入れ、今朝、鷲津、丸根砦で戦った。非常に疲れている。それに対し、我軍はフレッシュである。また、我軍は、敵軍よりは兵数が少ないが、「小軍なりとも、大敵を怖るる事なかれ」(だからと言って怖がるな)。『運は天にあり』(勝敗は天が決める)という言葉を知ってるか? (小軍が負けるとは限らない。やってみなければ分からない。)
 具体的には、敵が攻めてきたら退き、敵が退いたら追え。逃げる者を追って、ひねり倒し、追い崩すことは容易いものだ。
 分捕り(ぶんどり。倒した敵の甲冑や武具を奪い取ること)はするな。そのままにしておけ。(今川軍の領地に侵攻すれば、奪った領地を恩賞として与えられるが、向こうから攻めてきたので、勝っても土地は与えられない。だから少しでも何かを得ようとして、分捕りをするな。)勝ったら(土地は得られないが、金銭や物なら与えられるし、何よりも)「桶狭間で小軍が大軍を破った。その小軍の一員だった」という名誉が与えられるから、それを家の誇りとして、代々にわたって伝えれば良い。ガンバレ!」
と名演説をしていると、謹慎中の前田利家をはじめ、毛利長秀、毛利十郎、木下嘉俊、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、らが手に手に首を持ってやって来た。(名演説が終わった後であったので、)名演説の内容を一々、言い聞かせた。
 織田軍が山際まで進むと、俄(にわか)雨(氷雨?雹?)が(熱田神宮がある西の方から今川軍がいる東の方へ吹き荒れる暴風を伴って)石や氷を投げ打つ様に、敵(今川軍)の顔を打ち付け、味方の背中を押した。沓掛峠の堺松(三河国と尾張国の国境の目印の松)に、幹回りが2、3抱えある楠の木が倒れて、「目印が無くなる」と心配されたが、かすめて、横に倒れた。あまりにも凄まじい出来事に「熱田大明神の神軍(熱田神宮の本来の祭神である日本武尊の東征軍)か」(日本武尊が駿河国で草薙剣で草を薙ぎ払ったようなものか)、「熱田大明神は、我々織田軍(尾張軍、熱田軍、西軍)の味方で、今川軍(駿河軍、東軍)の敵にちがいない」「熱田大明神は、今川軍が、熱田大宮司家の千秋季忠を討ったので、お怒りなのであろう」と口々に言って士気を高めた。
 空が晴れたのを見て、織田信長は、自ら槍を手に取って、大声で、「それ、かかれ、かかれ」と叫んだ。織田軍が黒煙を上げて攻め込んでくる姿を見て、今川軍は、「天魔、鬼神の攻撃か」と恐れ、水を撒くように、後ろへくどっと崩れた。この時、弓、槍、鉄砲、幟、指し物等を乱しただけではなく、今川義元の塗輿さえも捨てて逃げた。(今川義元は、愛馬(白馬)に跨って逃げたという。)

■永禄3年5月19日午後2時

天文廿一年壬子五月十九日。
「旗本は是れなり。是れへ懸かれ」と御下知あり。未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。
 初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合ひ合ひ、次第次第に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。信長下り立つて若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若ものども、乱れかゝつて、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず、爰にて御馬廻、御小姓、歴々衆、手負ひ、死人、員(かず)知れず。
 服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。毛利新介、義元を伐ち臥せ、頸をとる。「是れ、偏に、先年、清洲の城に於いて武衛様を悉く攻め殺し候の時、御舎弟を一人生捕り助け申され候、其の冥加忽ち来なりて、義元の頸をとり給ふ」と、人々風聞なり。
 運の尽きたる験にや、おけはざまと云ふ所は、はざまくみて、深田足入れ、高みひきみ茂り、節所と云ふ事、限りなし。深田へ逃げ入る者は、所をさらずはいづりまはるを、若者ども追ひ付き、追ひ付き、二つ、三つ宛、手々に頸をとり持ち、御前へ参り候。「頸は何れも清洲にて御実検」と仰せ出だされ、よしもとの頸を御覧じ、御満足斜ならず、もと御出での道を御帰陣候なり。

【現代語訳】 5月19日の未の刻(午後2時前後)、織田信長が、
「旗本(今川義元)はあそこだ。あそこへ向かって攻めよ」
と命令したので、皆、東へ向って攻めて行った。
 初めは300人くらいが今川義元を中心に円陣を組んでいたが、逃げながら2、3、4、5度と戦う内に、次第に人がいなくなっていき、ついに50人までになっていました。「先の名演説通り、逃げてる今なら討てる。今しか討てない」と、織田信長は、馬から降りて、若武者(赤備えの織田信長親衛隊)と共に先を争い、残る50人の今川兵を突き伏せ、突き倒した。血気にはやる若武者たちも、乱れ掛かって、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り、火花を散らし、火の粉を降らした。入り乱れての白兵戦ではあったが、敵、味方の武者の色(甲冑の色、指し物の色)は異なっていた(一説に若武者は兜をかぶらず、白い鉢巻をしていた)ので、敵、味方の区別は容易で、当時の合戦でよく見られる「同士討ち」はなかった。今川義元の周囲には、城主など、名だたる武将がいて、彼等はかなりの使い手であったので、ここにおいて、織田信長の馬廻衆、御小姓衆、譜代の家臣衆で負傷した者や討死した者が多くいた。
 最初に今川義元に討ち掛かった服部小平太は、今川義元に膝の近くを切られて、倒れた。次に今川義元に討ち掛かった毛利新介は、今川義元を討ち、首を取った。「毛利新介が今川義元を討てたのは、偏(ひとえ)に善行による冥加(みょうが。神仏から知らず知らずに受けた助力)である。その善行とは、先年(天文23年)、清洲城の尾張国守護・斯波義統を攻めて切腹させた時、弟を1人生捕りにして殺さなかった事だという。その冥加が早速現れて、今川義元の首を討てた」と噂された。
※第17話「武衛様御生害の事」参照
 今川義元の運が尽きた証拠は、国境の桶狭間村(愛知県名古屋市緑区~愛知県豊明市)で戦ったことである。清洲など、平坦な濃尾平野での戦いであったなら、小軍が大軍に勝てる訳がない。しかし、桶狭間村は、谷が入り組んでいて、足場の悪い深田あり、高低差もあり、草木が生い茂って兵が隠れたり、逃げるのに邪魔になったりする場所もあるというという難所であった。深田へ逃げ込んだ者は、足を取られて歩けず、這いずり回っている所を、織田軍の若武者どもが追いついて槍で刺殺し、1人2つ、3つの首を手に持って、織田信長のもとへやって来たが、織田信長は、「明日、清洲で首実検をするので、その時に持って来い」と言い、今川義元の首だけは首実検して確認し、見て満足して、来た道を通って清洲城に帰城した。

■山口親子、山田景隆、松井宗信、服部友定

一、山口左馬助、同九郎二郎父子に、信長公の御父・織田備後守、累年、御目に懸けられ、鳴海在城不慮に御遷化候へば、程なく御厚恩を忘れ、信長公へ敵対を含み、今川義元へ忠節なし、居城・鳴海へ引き入れ、智多郡、御手に属し、其の上、愛智郡へ推し入り、笠寺と云ふ所に要害を構へ、岡部五郎兵衛、かつら山、浅井小四郎、飯尾豊前、三浦左馬助、在城。鳴海には子息九郎二郎を入れ置き、笠寺の並び中村の郷、取出に構へ、山口左馬助、居陣なり。
 此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎、両人召し寄せられ、御褒美は聊もこれなく、無下無下と生害させられ候。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず、今川義元、山口左馬助が在所へきなり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長、纔(わずか)二千に及ぶ人数に叩き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅猿敷(あさましき)仕合せ、因果歴然、善悪ニツの道理、天道おそろしく候ひしなり。

 山田新右衛門と云ふ者、本国駿河の者なり。義元別して御目に懸けられ候。討死の由承り候て、馬を乗り帰し、討死。「寔命は義に依つて軽し」と云ふ事、此の節なり。

 二股の城主・松井五八郎、松井一門、一党、弐百人、枕を並べて討死なり。爰にて歴々其の数、討死候なり。

 爰に河内二の江の坊主、うぐゐらの服部左京助、義元へ手合せとして、武者舟干艘計り、海上は蛛の子をちらすが如く、大高の下、黒末川口まで乗り入れ候へども、別の働きなく、乗り帰し、もどりざまに熱田の湊へ舟を寄せ、遠浅の所より下り立て、町ロヘ火を懸け候はんと仕り候を、町人どもよせ付けて、焜と懸け出で、数十人討ち取る間、曲なく川内へ引き取り候ひき。

【現代語訳】 山口教継・教吉父子は、織田信長の父・織田信秀に長年、目をかけられ、鳴海城主に抜擢されたが、織田信秀が思いもかけず病死してしまうと、程無く、受けた恩を忘れ、織田信長に敵対して、今川義元に付いてしまった。今川軍を居城・鳴海城へ引き入れたことにより、尾張国知多郡は今川義元に奪われてしまった。その上、尾張国愛智郡へ侵攻し、笠寺という所に砦を築くと、今川義元は、岡部元信、葛山長嘉、浅井小四郎、飯尾連龍、三浦義就を入れた。山口教継は、鳴海城に、山口教吉を入れ、自分は笠寺の近くの中村郷に砦を築いて入った。
※第11話「三の山赤塚合戦の事」参照
 このように、山口父子は、重々(かさねがさね)、今川義元に忠節を示したのであるが、その今川義元は、駿河国へ山口父子を呼び、褒美を与えるのかと思いきや、無下(むげ。冷淡)にも切腹させた。世は澆季(ぎょうき。道徳の薄れた人情軽薄な末の世)に及ぶ(現在は末法の世、戦乱の世ではある)が、日も月も未だ地に堕(お)ちてはいない(から、天道に逆らってはならない)。今川義元は、山口父子の領地であった鳴海に45000人の大軍を率いてきたのに、用に立たず(今川義元を守ることが出来ず)、1/1000(正確には1/22.5)の織田信長軍の僅か2000人に叩きつけられ、逃げている時に討たれた。(自分が切腹させた親子の領地で討たれるとは、)浅ましい巡り合わせというか、因果応報というか、善悪2つの道理は明らかで、天道とは恐ろしいものである。

 岡崎城代・山田景隆(「三河三奉行」の1人)という者の本国は駿河国(静岡県焼津市越後島字殿屋敷)である。今川義元に特別に目をかけられていた。「今川義元、討死」と聞いて、馬に乗って引き返し、討死した。(伝承では、切腹(殉死)した。)『後漢書』「朱穆伝」に「命は義によりて軽し」(命は義によって軽くなる。かけがえのない大切な命も、義のためならば捨てても惜しくない)とは、このようなことである。

 二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)の城主・松井宗信、ならびに、松井一門、一党、200人は、枕を並べて討死した。この「桶狭間の戦い」で、今川方の城主クラスの名だたる武将が討死した。

 この「桶狭間の戦い」で、尾張国海西郡河内二之江(木曽川河口)の鯏浦(うぐいうら、愛知県弥富市鯏浦)を本拠地とする入道・服部友定は、今川義元に味方するとして、軍船約1000艘を率いてやって来たので、伊勢湾に蛛の子を散らしたように見えた。大高城の城下の海岸、鳴海城の城下の海岸(黒末川の河口)まで乗り入れたが、参戦することもなく、軍船に乗って帰った。(一説に大高城に兵糧を入れたという。徳川家康は、大高城の城兵のための兵糧を入れ、服部友定は今川軍45000人のための兵糧を、朝の満潮の時に入れて、今川義元を支援したという。)河内に戻る時に、熱田湊へ軍船を寄せて、遠浅の所から兵を出して、熱田の町ロに火を放とうとしたが、熱田の町人衆は、この兵を寄せ付けておいて、どっと攻めたので、一気に数十人を討ち取る事ができた。放火できなかったので、「曲無し」(面白くない)と言って河内へ戻った。

■永禄3年5月20日

 上総介信長は、御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるゝ程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日、頸御実検候ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさゝれたる鞭、ゆかけ持ちたる同朋・下方九郎左衛門と申す者、生捕に仕り、進上候。近比、名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜ならず。義元前後の始末、申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申し、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀、わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立にて、義元の頸、同朋に相添へ、駿河へ送り遣はされ候なり。
 清洲より廿町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、「義元塚」とて築かせられ、弔の為めにとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候らひし。
 今度分捕に、義元不断さゝれたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断さゝせられ候なり。
 御手柄申す計りもなき次第なり。
 さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛、楯籠り候。降参申し候間、一命助け遣はされ、大高城、沓懸城、池鯉鮒の城、鴫原の城、五ケ所同事退散なり。

【現代語訳】 織田信長は、馬の前に今川義元の首を掲げさせて、(残党による復讐、首の奪還から逃れるように)急いで清洲に帰ったので、その日の内に清洲へ戻ることが出来た。
 翌日、清洲で首実検をした。首の数は3000以上あった。この時、今川義元が使っていた鞭と弓懸(ゆかけ。弓を射る時に使う手袋)を持った同朋衆(陣僧)を、下方(しもかた)九郎左衛門という者が生け捕りにし、織田信長の御前に引き出した。織田信長は、「(同朋衆を生け捕るとは)近頃にない手柄である」と言って、下方九郎左衛門に褒美をやり、機嫌もよかった。織田信長は、生け捕った同朋衆に、今川義元討死前後の様子を聞き、誰の首であるか、1つ1つに名字を書かせた。そして、この同朋衆には、熨斗(金銀装飾)付の太刀と脇差を(首実検の褒美として)与え、その上、今川義元の首を、この同朋衆に渡し、10人の僧を付けて駿河国へ送り返した。
 織田信長は、清洲から20町(2.2km)南の須賀口(清須市)の熱田参りの街道に、「義元塚」を築かせ、供養のために千部経を読ませ、大きな卒都婆を立てた。
 この「桶狭間の戦い」で分捕った物に、今川義元が普段差していた秘蔵の名刀「左文字」を召し上げ、何度も試し切りをさせると、気に入ったのか、織田信長は、普段差す刀にした。
 織田信長の今回の手柄(今川義元を討ち取った事)は、言うまでもない。
 さて、鳴海城には、岡部元信が立て籠もっていたが、降参したので、一命は助けてやった。この鳴海城、大高城、沓掛城、知立城、鴫原城の5城の城兵は、駿河国へ撤退した。

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