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『歴史道』で「本能寺の変」のお勉強

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 新聞社の本だけあって「~道」というお堅いタイトルである。

「古来日本では、柔道、華道、武士道から相撲道、野球道などの造語まで、歴史と伝統のある技芸に「道」を付けて重んじ、昇華させてきました。その価値観に敬意を表し、また少しでも先達に近づきたいという思いから『歴史道』(れきし・どう)という誌名を命名しました▶また歴史とは、古代、中世から近現代まで「一本の道(みち)」として繋がっているものです。その意味合いも、この誌名には込められています」(編集・花岡武彦)

「Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen.
Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.」(ドイツ初代宰相・ビスマルク)
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。 愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。
※ 独りよがりな愚か者は、学ぶことなく、自分の知識と経験だけで行動するから失敗し、失敗して初めて間違っていたことを知る。しかし、賢明な者は、歴史の因果関係、先人の知恵を学んでから行動するから失敗しない。

 ワタシ的には、「歴史道」「歴史に学ぶ」というよりも、「歴史で楽しむ」「戦国時代で遊ぶ」というスタンスです。たとえば、「謎解き」遊び。「本能寺の変」で言えば、
(1)「本能寺の変」の動機
(2)「本能寺の変」の実行犯
(3)織田信長の首(遺体)の行方
を自分なりに考察することが楽しいのであり、この楽しみは、推理小説を読みながら犯人を考える楽しさに似ています。

(1)「本能寺の変」の動機 NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀は「何かが…変わった」と言った。これは、「織田信長が変わった。人から鬼になった」ということ。人は殺してはならぬが、鬼は殺さねばならぬ。
 そういえば、『麒麟がくる』には、明智光秀の母の「人は変わるもの」という言葉も出てきた。「何かが…変わった」──そう、織田信長だけではなく、明智光秀も変わった。今の明智光秀は、徳川家康に「どうすればいい?」と聞かれて、「己の国が豊かで、人並みに暮らせる所であれば、他国に目を向けることはないはず。それ故、己の国がどれ程の田畑を有し、作物の実りがどれ程見込めるのか、正しく検地を行い、それに見合った人の使い方をし、無理のない年貢を取る。まずはそこから」と自分の考えを述べている。以前の明智光秀はといえば、織田信長に「どうすればいい?」と聞かれて、「誰にも侵されない大きな国を作ればいい」と斎藤道三が言ったことをそのまま答えた。その時、織田信長は「マムシが…」と答えた。多分、「義父の・斎藤道三が織田信長に託した斎藤道三の夢」と受け止めたのであろう。その結果、生涯で累計20~25万人を殺したとされる鬼・織田信長を作ってしまい、斎藤道三の娘にして織田信長の正室・帰蝶に「今の信長様を作ったのは父上であり、そなたなのじゃ。その信長様が一人歩きを始められ、思わぬ仕儀となった。やむを得まい。万(よろず)、作ったものが、その始末を為すほかあるまい。違うか?」(斎藤道三の構想を元に明智光秀が織田信長を制作した。失敗作(暴走して人を殺める鬼)なら、制作者が壊せ)と言われた。
 明智光秀は、織田信長に「どうすればいい?」と聞かれた時、徳川家康に答えたように、「まずは検地。次に治水工事」と自分の考えを答えていたら、少なくとも「私は領主になったことがないので分からない」と素直に答えていたら、織田信長は鬼にならなかったであろう。(そもそも戦国大名は領国支配、統治が仕事であり、織田信長のように他国への侵攻を考えた者は少ない。)

(2)「本能寺の変」の実行犯 「本能寺の変」の実行犯は明智光秀ですが、異説としては、
①イエズス会:明智光秀が本能寺に着いた時、既に殺害されていた。
②斎藤利三:同郷の帰蝶の依頼で軍隊を率いて殺害した。(帰蝶黒幕説)
があり、最近、②説を補強する史料『乙夜之書物(いつやのかきもの)』(本能寺に従軍した斎藤利三の三男・斎藤利宗が、加賀藩士の甥に語った証言を、同藩の兵学者・関屋政春がまとめた本。「光秀ハ鳥羽ニヒカエタリ」(光秀は鳥羽に控えたり)とある)も見つかりました。(2020年1月4日公表)

※『週刊ポスト』(1月15日発売号)
「これ以前に知られている史料に、秀吉が書かせた『惟任退治記』(本能寺の変から山崎の戦いで光秀が死ぬまでを描いた書。惟任とは光秀のこと)がありますが、そのなかにも『光秀が途中に控えた』という記述が出てきます。また、本能寺で火の手が上がったのを確認してから光秀が動き出したという記述もある。これは光秀を討った秀吉の側が残した記録なので決定打にはならなかったものですが、今回は光秀側の証言で同じ内容が出てきましたから、光秀が本能寺にいなかったことが裏付けられたのではないでしょうか」(史料を発表した富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員)
「報道で見たかぎりですが、おもしろい史料だなと思います。ただ、光秀が鳥羽にいたいうのはどうでしょうか。私は、これは本能寺の変ではなく、そのあと秀吉軍と激突した山崎の戦いの話ではないかと思います。光秀軍は丹波亀山城を出て、老ノ坂を越え、桂川を渡って京に入ります。そこから本能寺に向かうのと、洛外である鳥羽に行くのでは全く別方向になる。位置的にいうと、山崎の戦いの際に光秀が鳥羽にいたというならわかるのですが、本能寺の変だと疑問が残る。史料で証言者とされている斎藤利宗が記憶違いをしていた可能性もありますね」(『麒麟がくる』の時代考証・小和田哲男先生)
「当時、大阪には信長の三男である織田信孝が四国討伐軍を率いて駐屯していた。万が一、信長を本能寺で討ち逃した場合、信孝と合流する可能性があった。だから、京から大阪に向かう途中である鳥羽に控えたと想定できます。『惟任退治記』では、光秀が本能寺に向かった軍勢に遅れて動いたのは、信長の嫡男・信忠がどこにいるかわからずにいたところ、本能寺とも近い二条御所にいることがわかったので本隊が向かった、とされています。信長と信忠を同時に討つために、斎藤利三らと光秀の本隊が役割分担していたとも考えられます」(史料を発表した富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員)

★戦国・小和田チャンネル「光秀は本能寺には行かなかった!?」
https://www.youtube.com/watch?v=v3dRsq5re7Q

※『惟任退治記』の記述について
①「惟任少扣途中」:これは、亀山城と本能寺の途中の篠村八幡宮で、先陣を誰にするかとか、進軍ルートを決めた軍議のことだと思われます。
②「惟任者将軍召御腹。御殿見火焔上。成安堵思」:これは、「織田信長が切腹した」という情報が入り、織田信長がいた御殿が燃え上がる炎を見て、明智光秀は安心したという意味でしょう。(明智光秀は、(本能寺の中に入って流れ矢が当たることを心配して、あるいは、家臣が状況を報告するのに移動すると迷うので)本能寺には入らず、本能寺の門にずっといて、中の様子を気にしていたと思われます。)

(3)織田信長の首(遺体)の行方 織田信長の遺体は、
①豊臣秀吉が隠し、「織田信長は生きている。明智光秀の味方をすると大変なことになる」と宣伝した。
②「晒すのはかわいそうだ」という明智光秀の命により、明智光遠が密かに阿弥陀寺へ運んだ。(着ていた着物は見つかった。)
③本能寺には大量の鉄砲はもちろん、大量の火薬もあった。織田信長は爆死で、遺体は木っ端微塵になった。
④本能寺の抜け穴の中にある。(加藤廣『信長の柩』)

※参考記事
・髙田渓流斎さん『《渓流斎日乗》 DEPUIS 2005』
 「「本能寺の変」の謎が解明した?」
https://keiryusai.com/archives/date/2021/01/10
・三宅徹さん『Kyoto Love.Kyoto』
「光秀は桂川のほとりで「敵は本能寺に」と言ったのか? 新資料報道を受けて」
https://kyotolove.kyoto/I0000284

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