見出し画像

簡単戦国解説8【戦国最強武将は誰だ!?】

 このコーナーでは戦国初心者さんに向けての簡単戦国解説を書かせていただいております。戦国時代や戦国武将さんに詳しくないという方にも、分かりやすくお伝えできるよう心がけました。出回っている文章情報よりふりがなを少し多めに記載しております。「それぐらい読めるよ!」って方も暖かく見ていただけると幸いです。

音声で聴きたい方はコチラ。ながら聴きや作業のBGMなどにお使いください。
 ↓ ↓ ↓ ↓

 今回のテーマは【戦国最強武将は誰だ!?】 


今回はこのテーマを3つの要点にまとめて書かせていただきます。

①最強勢力
②個人武勇最強
③最強軍師

《最強勢力》

では要点の一つ目、最強勢力。
突然ですが、皆さまはどう思われますか? 最強の戦国武将。最強の軍を率いた武将は誰だと思いますか?

もしかしたら織田信長の名を挙げる方もおられるかも知れません。歴史に詳しくない方でも、名前ぐらいは聞いたことあるのではないでしょうか。ですが戦の勝率に関して言えば、じつはそこまで高いわけではないんです。

勝率に関して言えば、武田信玄・上杉謙信の方が上です。とくに戦術に関して言えば、上杉謙信こそ戦国最強との呼び声が高いです。また戦のみならず、外交も含めた戦略的なもの、トータル的に見た場合、武田信玄こそが戦国最強とよく耳にします。

仮にもしそうだとすると、

「じゃぁ武田信玄と上杉謙信、どっちが強いの?」

「戦国最強は二人もいらない!」

なんて思っちゃったりもします。さて、どちらが強いのでしょう。

永禄4年(西暦1561年)、第四次川中島の戦いにて、どちらも戦国最強と目される武田信玄と上杉謙信が激しくぶつかりました。どちらも大きな被害をこうむりつつも、武田軍の方がやや死傷率が高かったうえ、武田信繁や山本勘助といった重臣たちが何人も討ち取られました。

が、この戦場となった地を占領したのは武田軍。そのことから、

 ●戦術的には上杉謙信の勝ち

 ●戦略的には武田信玄の勝ち

とも言われ、引き分けといった印象です。なので、二人とも戦国最強と言ってよいのではないでしょうか。ただこうゆうのは検証しきれるものではありませんので、あくまで戦国最強候補。

あくまで候補。

ちなみに、この武田信玄・上杉謙信をも撃退した武将さんがおりました。それが、

北条氏康(ほうじょううじやす)

関東に覇をとなえた名将です。そのことから、彼もまた戦国最強候補に入れてもいいのではなかろうかと、個人的には思います。

とは言うものの、ここに『規模』という概念が加われば、これまた話が変わってきます。その考え方でいえば戦国最強は、天下統一後の豊臣秀吉・徳川家康

日本全土の戦力が支配下となったということになるので。この「天下統一後の」というワードでお分かりのとおり、同じ勢力でも時期によってその強さは異なります。なので厳密には西暦何年時点での○○軍といった表現をしないと正確ではないし、強さとは何か?という定義を明確にしなければ、これまたあいまいな答えしか出てきません。

何が基準なのか?
戦略なのか、戦術なのか、はたまた将兵の数なのか、などなど。
 

《個人武勇最強》

では要点の二つ目、個人武勇最強。もし軍勢ではなく一人の武人としての強さを競うのであれば、誰が戦国最強なのでしょうか?
まず名前が挙がるのは本多忠勝

この方はなんと、生涯において57回もの戦に参戦し、無傷。57回も戦って無傷!?
めちゃめちゃ強いやん! ってな感じですね。
ただ、57回戦って、というよりかは57回出陣したという表現の方が正確であり、必ずしもすべての戦で直接戦闘に参加したとも限らず、また57回参戦して無傷ということは、個人的武勇というよりかはむしろ、ケガをしない戦い方、つまり戦術に長けていたとみなした方が良いのではなかろうかと個人的には思います。

無傷といえばこの方もご紹介しておきたいです。

馬場信春(ばばのぶはる)

70回以上もの戦に参戦するも無傷でした。凄すぎます。が、最期の戦いとなった長篠の戦いにおいて命を落としております。この方もどちらかといえば個人的武勇というよりかは、戦術に長けていたのではなかろうかと私は考えております。

次にご紹介しますのは

可児才蔵(かにさいぞう)

この方こそはまさに武人といった印象です。一説には関ヶ原の戦いにおいて、個人で一番敵を多く討ち取ったのは彼ではなかろうか? なんて話まであります。本当かどうかは分かりませんけどね。
そして、

森長可(もりながよし)

鬼武蔵(おにむさし)と呼ばれ恐れられた猛将です。手に持つ槍は人間無骨。人間など骨がないかのように貫けるという意味です。めちゃめちゃ強いですね。

そして彼は15歳のときに初陣(ういじん)、つまり初めての戦に参戦したのですが、この時なんと27人もの敵を討ち取っております。厳密にはこれ、一人で討ち取ったのか部隊で討ち取ったのか確認できる資料は見つけられなかったのですが、いずれにしても凄いなと思います。
そして、

正木時茂(まさきときしげ)

この方は槍大膳(やりだいぜん)と呼ばれた槍の達人です。朝倉宗滴(あさくらそうてき)というめちゃめちゃ有能な方がおられたのですが、彼は同時代の優秀な武将さんとしてこの正木時茂の名を挙げております。

なんとこのとき同列として織田信長・今川義元・武田信玄・上杉謙信・毛利元就といった名だたる武将さんの名も挙がっているんです。彼らと同列ってことは相当優秀だったんでしょうね。

本当はもっともっとご紹介したいところなのですが、きりがないのでここまでとします。
 

《最強軍師》

では要点の三つ目、最強軍師。武芸や戦術に強かった方々の名を挙げてきましたが、頭脳を使って戦った者たちもおりました。知略をもってして主やリーダー、勢力に貢献する軍師という存在です。と言いつつも、当時は軍師とは呼ばれておりませんでした。が、あえてここでは軍師と呼ばせていただきます。有名な軍師として名が挙がるのは、まずは

竹中半兵衛

たった16人、もしくは17人で城を落とした名軍師です。そして

黒田官兵衛

彼もまた高い知力を持っていたとされ、豊臣秀吉の天下統一事業に大きく貢献しました。この竹中半兵衛・黒田官兵衛、二人合わせて「二兵衛」もしくは「両兵衛」と呼ばれており、彼らの活躍なくして、豊臣秀吉の天下統一は成しえなかったとも言われます。

こんな天才たちが味方で、秀吉さんは心強かったかも知れません。が、黒田官兵衛は頭が良かっただけでなく、野心も持っていたなんて話もあります。それを警戒した秀吉さんから後年遠ざけられた、もしくは本人が危険を察知して自ら現役を退いたなんて話まであります。本当かどうかまでは分かりませんけどね。

また西暦1600年の関ヶ原の戦いにおいて全国の大名たちが西軍・東軍とに分かれ激しくぶつかりましたが、このときの黒田軍の動きはどちらともどちらともとれないという意見もあります。じつは黒田官兵衛は次の天下を狙っていたのでは? なんて疑いの声までささやかれております。

まぁ、いずれにしても天才軍師といった印象ではあります。

ただ、ひとつの考え方としまして、本当に優れた策士というのは誰にも気づかれないあいだに策を講じて、気づかれないあいだにそれを完遂させるという見方もあります。もてはやされてる人はナンバー1とは言い難いんじゃなかろうか? という考え方ですね。

そういった視点で考えますと、私は徳川家康に仕えた

本多正信(ほんだまさのぶ)がどことなく気になります。

この方も有名な方ではあるのですが、竹中半兵衛・黒田官兵衛ほどはもてはやされていない印象です。その反面、その後260年にわたってつづいた徳川幕府の基礎をつくったのではなかろうか? なんて噂まであります。だとしたらこの本多正信さん、なかなかに素晴らしい策士だなぁと思います。

まぁ、その話が私の耳に入っている時点で「バレとるやん!」って感じなんですけどね。

他にも軍師や知将として、
山本勘助(やまもとかんすけ)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)・片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)といった名が挙がると思います。

はい、いかがだったでしょうか。戦国最強は誰だ!?
本当はですね、もっともっと候補がいるんですが、きりがないので抜粋して一部だけをご紹介しました。皆さまはどう思いますか? 戦国最強は誰だろう?
こういったこと考えるの楽しいですね。

ただですね、先述しましたが、こういったことは検証しきれるものではないので明確な答えはないということは覚えておいてください。

歴史は常に闇の中

なので私は

 「こうゆう史料があります」

 「こうゆう説があります」

 「私はこう考えております」

 でも!

 「実際にはわかりませんよ」

というスタンスで歴史と向き合っております。ここまで読んでくださりありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?