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簡単戦国解説6【歴史は常に闇の中】

 このコーナーでは戦国初心者さんに向けての簡単戦国解説を書かせていただいております。戦国時代や戦国武将さんに詳しくないという方にも、分かりやすくお伝えできるよう心がけました。出回っている文章情報よりふりがなを少し多めに記載しております。「それぐらい読めるよ!」って方も暖かく見ていただけると幸いです。

音声で聴きたい方はコチラ。ながら聴きや作業のBGMなどにお使いください。
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 今回のテーマは【歴史は常に闇の中】 

私は、次のようなスタンスで歴史と向き合っております。

 「こんな史料があります」

 「こんな説があります」

 「私はこう考えております」

 「でも!実際には分かりませんよ」

どう思います?
どこかまどろっこしくて「ハッキリこうだと断言してくれ!」って思った方、おられますか?
私がこういったスタンスをとりだしたのは、歴史系TikTokの発信を始めて少ししたあたりからです。

 前回の記事にて「後世に名が残ってない無数の人々が歴史の闇に眠っている」と書きました。これは本当に覚えておいていただきたいことであります。後世に残った名前やエピソードは、実際にその時代に生きた人たち、起こったエピソードの中のほんの一握りでしかないのです。

残っている史料もまた、本当のことが書かれているとは限らないし世間で通説とされている話が本当とも限りません。事実、新しい史料の発見や研究が進んだことによって、それまで通説と言われてきたことが覆るなんてことは頻繁に起こってます。

例としまして「しかみ像」のご紹介をしたいと思います。

徳川家康は三方ヶ原の戦いにおいて武田信玄に大敗し命からがら逃げかえった際、疲労困憊し憔悴した自らの絵を描かせたと伝わります。自らの軽率な判断で戦に惨敗し多くの家臣を死なせてしまったことを悔い改め、二度と同じ過ちを犯さぬよう戒めとして描かせたと。それが「しかみ像」。

このエピソードは大河ドラマをはじめ、多くの作品に登場しました。が、平成27年、じつはそれは間違いであったことが発覚します。徳川美術館の学芸員さんが調べてみたところ、しかみ像は三方ヶ原の戦いとは関係ないことが分かったのです。

元々これは紀州徳川家から尾張徳川家へもたらされたもので、そのときはただ徳川家康の肖像画としか伝わっておりませんでした。が、ときを経るごとに尾ひれはひれがついてしまい、

「三方ヶ原の敗戦直後、徳川家康が戒めとして自らを描かせた」

となってしまったのでした。こんなことはよくあるようです。
戦国時代ではないのですが、他にも例えば、西郷隆盛。あなたは、彼の名前、本当に西郷隆盛だと思っていないでしょうか?

「え?何その質問?」

ってお思われた方もおられるかも知れませんが、彼の本当の名前は西郷隆永(たかなが)。隆盛(たかもり)ではないんです。戦国時代もそうなのですが、名前には諱(いみな)というものがありました。織田信長でいうと信長、豊臣秀吉でいうと秀吉の部分。西郷隆盛ですと隆盛の部分。

当時はですね、この諱でその人のことを呼ぶのは稀でした。西郷隆盛の場合もですね、仲の良い人でも通称の吉之助(きちのすけ)と呼んでいたんです。

明治2年、とある手続きが必要となりました。このとき正式なフルネームが必要となり、彼の親友である吉井友実(よしいともざね)が尋ねられます。ところが、仲の良い彼もまた諱を知らなかった(もしくは覚えていなかった)ので、間違えて西郷隆永の父・隆盛の名を答えてしまったようなのです。

さらには、それを知った本人も訂正しなかったばかりか、むしろそこからは本人も西郷隆盛と名乗るようになったとのこと。かくして彼の名前は西郷隆盛として定着してしまったわけです。
 

歴史は常に闇の中。なので私は、

 「こんな史料があります」

 「こんな説があります」

 「私はこう考えております」

 「でも!実際には分かりませんよ」

というスタンスで歴史と向き合っております。
 
すでに述べました通り、新しい史料の発見や研究が進むことによって、それまで通説と言われてきたことが覆るなんてことはよくあります。調べれば調べるほど、自分は何も知らないんだな~って思いますし、しばらくインプットを怠っただけで、もう周回遅れになったかのような感覚になります。でも、それもまた歴史の魅力とも言えるような気がします。

ここまで読んでくださり誠にありがとうございます。歴史初心者の方へ向けての内容でありますので、玄人様におかれましては全くもって物足りない内容だったかも知れません。これを読んで、少しでも歴史(戦国時代?戦国武将?)に興味を持った方がいらっしゃれば嬉しいなと思うしだいであります。   

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