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戦国note

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#勉強

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

誤解されがちな「南蛮貿易」

 中学の歴史教科書にも載っている「南蛮貿易」という単語は皆さんもご存知でしょう。大航海時代にアジアに進出したポルトガル人やスペイン人(南蛮人)との間で行われた貿易です。  この南蛮貿易では、どのような物品がやりとりされたのでしょうか。歴史を教えている実感として、一般のイメージと実態が乖離している気がします。  おそらく、大半の人が「ヨーロッパから新奇な品がもたらされ、織田信長をはじめ大勢の権力者を喜ばせた」イメージを持っていないでしょうか。  確かに、ヨーロッパ人との交

天守だけじゃない! 松本城の凄さ

 前回取り上げた林城は、小笠原氏の没落によって廃城。その後、小笠原貞慶が旧領に復帰。平地部に松本城を築きました。  松本盆地の中核の城は、中世から近世にうつり変わるとともに、土づくりの山城から石垣・水堀を備えた平城に移行したのです。城の変化の典型といえますね。 最大の見どころ・国宝天守 松本城の見どころは、言うまでもなく国宝に指定されている現存天守です。豊臣秀吉に仕えた石川数正・康長父子によって、16世紀末に築かれたとされています。  上の写真の右部分は、赤い欄干のある

逃げ上手(?)な殿様と林城

 長野県松本市にある林城は、戦国時代に信濃国小笠原氏の居城であった城です。長野県(つまり信濃国)の中央にある松本市は、かつて信濃国府が置かれ「府中」と呼ばれていました。  足利尊氏に従い、信濃国守護に任じられたのが小笠原貞宗です。松井優征の漫画『逃げ上手の若君』にも登場します。古来の儀礼に通じていた貞宗は、小笠原流礼法の中興の祖とされています。  貞宗は居館として井川城を松本盆地に築きました。戦国時代になると、より守りに有利な山城の林城が築かれ、小笠原長棟の代に本拠地が移

皇居一般参観で江戸城を見学する

 言わずと知れた徳川将軍の居城であった江戸城。かつての本丸・二の丸・三の丸であった皇居東御苑、皇居外苑は無料で入ることができます。一方、一般参賀などの特別な機会を除いて入れない地区もあります。  平日の午前・午後には、自由には入れない地区を見学する「一般参観」が行われています。宮内庁庁舎や宮殿の他、江戸城の富士見櫓や伏見櫓といった歴史的建物も間近で見られるので、城ファンとしても見逃せない機会です。  午前の部は、9時から桔梗門の前で整理券配布が始まります。事前予約は埋まり

「キリシタン神社」を知っていますか

 日本人は「八百万の神」を信じるとされ、外来宗教である仏教と日本古来の信仰が混じった「神仏習合」などがみられます。  江戸時代の禁教令の時代には、潜伏キリシタン(隠れキリシタン)が観音菩薩の像を聖母マリア像に見立てて礼拝していた「マリア観音」という事例もあります。  さらに、キリスト教の信仰にもとづいて建立された神社もあります。「キリシタン神社」は非常に珍しく、全国に3例しか現存していません。 枯松神社(長崎市) 長崎県は、禁教令下でも多くの潜伏キリシタンが信仰を保って

大名の分け方は「親藩・譜代・外様」でいいのか

 江戸幕府を開いた徳川家康は、全国の大名を3つに分けた、と歴史の授業で習います。 1.将軍家の親戚である親藩(尾張・紀伊・水戸の御三家、会津や越前の松平氏など) 2.代々の徳川家臣である譜代大名(井伊氏、酒井氏、阿部氏など) 3.関ヶ原合戦の前後に徳川家に臣従した外様大名(島津氏、伊達氏、細川氏など)  親藩や譜代大名は要地に置かれる一方、外様大名は江戸から遠い辺境に置かれた…と習った人が多いと思います。  しかし、大名の分類に「これが正解」というものはありません。笠谷

「人間五十年」の誤解

 織田信長が好んだという幸若舞『敦盛』。その一節「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり 一たび生を享け、滅せぬもののあるべきか」は非常に有名です。  ところで、「人間五十年」の部分を「人間の一生はたった五十年だ(昔の人の寿命は五十年くらいだった)」と誤解していることが多いようです。 「人間」は現代の意味ではない 現在、「human」の意味で使用される「人間」は、古語では違う意味で使われます。「人」たちの「間」、つまり世間や人間の世、といった意味です。  

【書評】柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(平凡社)

 来年の大河ドラマの主人公である徳川家康。創作の中では、「人質から天下人になった苦労人」「信長や秀吉に信頼された律儀者」「豊臣家を滅ぼした陰険な狸親父」など、一定のパターンで描かれているようです。  しかし、近年の研究の進展により、古い家康像は書き換えられています。2017年刊行の本書も、そうした成果の一つといえるでしょう。 「境界の領主」としての徳川家康 本書の副題で、繰り返し出てくるキーワードが「境界」です。異なる勢力が接する境界では、領土紛争が頻発します。  戦国

「清須会議」の嘘~秀吉は三法師を傀儡にしたのか

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により、織田信長・信忠父子は自害しました。しかし、ほどなくして羽柴秀吉が中国地方から帰還し、明智光秀を討ち取ります。  その後の6月27日、尾張国清須城において、織田家の重臣が集まって権力の方針を話し合った「清須会議」が開かれました。参加者は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興です。 「清須会議」とは何か 一般に、清須会議の模様は次のように理解されています。  信忠が死んだため、次男の信雄、三男の信孝が家督を争った。勝

観音寺城~山上の巨大石垣群

 観音寺城は、滋賀県近江八幡市にある山城です。近江国守護を務めた名門・佐々木六角氏の居城でした。  この城は、繖山という標高440メートルほどの山に築かれました。観音正寺という寺院の背後にあり、かなり広大な城域を誇ります。  JR安土駅から登城口まで、徒歩で約1時間ほど。レンタサイクルの活用を勧めます。  観音寺城の特徴は、郭のまわりに石垣が高く積まれていることです。  近世城郭の先駆けとなる安土城(織田信長が築城)より早く、「日本最初の本格的な石垣の城」とも言われま

本能寺の変で運命が狂った人々

 1582年、明智光秀が織田信長を襲った本能寺の変。信長が自害し、豊臣秀吉が天下を取るきっかけとなった重大事件であることはいうまでもありません。  本能寺の変の影響は極めて大きく、とばっちりのようにして命を落とした人物も多くいます。 直接的な犠牲者 明智光秀が襲撃したのは、信長の宿泊する本能寺、嫡男信忠が立てこもった二条御所です。  信長の小姓である森蘭丸・坊丸・力丸の兄弟が戦死したことはご存じの方が多いと思います。  それ以外にも、京都の行政を担った優秀な行政官であっ

『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく⑤~つつもたせ事件

前回はこちら。 『信長公記』の本筋に関係ない記述を紹介していくシリーズは、今回が一応最終回です。 つつもたせ事件(巻十四の二十二) 天正9年(1581年)12月のできごとである。  近江国の野尻の郷という場所に、延念という徳のある僧侶がいた。ところが、蜂屋の郷の「八」という男がつつもたせを企て、若い女を用意した。  雨の降る夕刻、女は延念の寺に駆け込んでしばらく宿を借りたいと願った。僧侶は「迷惑である」と言ったが、女は庭の隅で火を焚いて居座った。そこに男が押し入って、

『信長公記』の割とどうでもいい記述を紹介していく④~京都四条の殺人事件

前回はこちら。  天下人・織田信長の事績を記した良質史料『信長公記』の、本筋に関係ない記述を紹介する本シリーズ。  今回は天正7年(1579年)のできごとです。おそらく、京都の町中で話題になった出来事を書き留めたものでしょう。 京都四条小結町の殺人事件 京都で前代未聞のことが起こった。京都四条の小結町に、70になる後家の老婆と娘が暮らしていた。4月24日の夜、娘は上等の酒を買い求め、母に飲ませた。娘は、寝てしまった母を刺し殺し、革張りの丈夫な籠にいれてしっかりと縛った。