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戦国note

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#最近の学び

戦国最大の謎・本能寺の変! 明智光秀はなぜ織田信長を討ったのか?

35日間の連投で、和樂webに掲載された歴史記事を中心にご紹介してきましたが、本日が一区切りとなります。本日のテーマは「本能寺の変」です。 天正10年(1582)6月2日早朝、京都本能寺にて織田信長死す。戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、明智光秀はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。動機については古来、怨恨説が語られてきましたが、その後、野望説や黒幕存在説なども生まれ、今もなお研究者の間で議論が続いています。今回は各説のあらましと研究の最前線から、本能寺の変の真相を探る

「清須会議」の嘘~秀吉は三法師を傀儡にしたのか

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反により、織田信長・信忠父子は自害しました。しかし、ほどなくして羽柴秀吉が中国地方から帰還し、明智光秀を討ち取ります。  その後の6月27日、尾張国清須城において、織田家の重臣が集まって権力の方針を話し合った「清須会議」が開かれました。参加者は羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興です。 「清須会議」とは何か 一般に、清須会議の模様は次のように理解されています。  信忠が死んだため、次男の信雄、三男の信孝が家督を争った。勝

【新刊のご案内】『日本史100人の最期』(宝島社)

 執筆協力した書籍(ムック)が発売となりました!  宝島社刊行『日本史100人の最期』です。  私は、有名な戦国武将である「明智光秀」「今川義元」「武田信玄」を担当しました。内容は以下のような感じです。 ・羽柴秀吉に敗れて三日天下に終わった光秀。彼は本能寺の変の直後、何をしていたのか? ・桶狭間の戦いで不覚を取った義元。彼は大軍を率いながら、なぜ信長に負けたのか? ・西上作戦が最期の戦いとなった信玄。彼はこの作戦で上洛を目指していたのか?  中身をちょっとだけ紹介しま

細川ガラシャのたどった余りに壮絶な生涯とは【過去のお仕事紹介】

本記事は、過去に執筆したWeb記事の紹介です。 【導入】 数多くの武将が登場し、一般的にも気の高い戦国時代。この時代、悲劇的な最期を遂げたキリシタン女性として有名なのが細川ガラシャです。 世間的には「かわいそうな女性」というイメージで通っているかと思いますが、詳しい生涯を知っている人は少ないでしょう。 短い生涯の間に幾度も逆境に見舞われながら、誇りを守り抜いた女性・細川ガラシャについて紹介しましょう。 ※続きはこちらから。

日本史が2倍楽しくなる「名前」のお話②

 日本史を学ぶ人を悩ませる要因の一つが、「昔の人、コロコロ名前変えすぎ!」というのがある。  例えば上杉謙信は、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→謙信(法名)と何度も名を変えている。が、「改名にどんな意味があったのか」について考えると、もっと深く歴史を理解できる。 徳川家康の場合 徳川家康は元々「松平元康」と名乗っていた。松平氏ははじめ駿河の今川義元に従属しており、「元康」も「義元」から偏諱(へんき)を受けたものだ。 (※「偏諱」についてはこちらを参照)

日本史が2倍楽しくなる「名前」のお話①

「日本史の人物って似たような名前ばかりで覚えられない…」という生徒は多い。  しかし、その名前にも一定の法則があると知っておけば、覚えやすくなるのではないか。  逆に考えてみてほしい。室町時代や江戸時代の人名が、「秀明さんの息子が達也さん」みたいに関連性がまったくなかったら、もっと余計に覚えにくいはずだ。 「下の名前」じゃなく「諱」です 一口に名前と言っても、姓・名字(苗字)・仮名・幼名・諱…と説明しなければならないことがたくさんあるのだが、今日は、ひとまず武士たちの「諱(

武蔵小机城~北条氏の家臣・小机衆が守った城

武蔵小机城は、横浜市港北区にある山城である。現在は「小机城址市民の森」として公園化され、市民の憩いの場となっている。 新横浜駅の隣、JR小机駅から徒歩約15分。山城としては異例なほど、都心からアクセスがしやすい。 城の入り口から、さっそく急斜面が見える。現在は竹林が植えられ、独特の景観になっている。 登っていくと、まず巨大な空堀に圧倒される。西側の曲輪の周囲を囲む大空堀だ。 東に回り込んでいくと、空堀の下に入り込むこともできる。 ひとたび空堀の下に迷い込んだら、曲輪

戦国時代の村人を守った「禁制(きんぜい)」って何だ?

 戦乱の時代、民衆はただ蹂躙されるだけの存在だったわけではない。自分たちの安全は自分たちの実力で守るという「自力救済」の思想を持って生き抜いていた。  中世の民衆史を専門とする藤木久志氏らの研究により、戦国時代の農村の自立性が明らかにされている。その事例の一つが「禁制(きんぜい)」だ。 禁制=村の破壊を禁止したもの 禁制(制札)とは、大名・領主や軍団の司令官が味方と認めた村に対し、略奪・破壊から保護することを約束する文書や木札などのことだ。  禁制そのものは鎌倉時代からあ

戦国大名「名字の地」をまとめてみた

 武士の名乗った名字は、多くの場合所領の地名から取られました。名字の由来になった土地(名字の地)は本貫地とも呼ばれます。  中国地方のイメージが強い毛利氏の由来が相模にあるなど、時々意外なものもあるのでまとめてみました。  もちろん、島津氏(九州)や伊達氏(陸奥)、浅井氏(近江)のように、名字の地が順当な場所にある場合が多いです。在地領主がそのまま戦国大名化したケースです。場所が順当と思える氏族は除いています。  なぜ、全然関係なさそうな場所にルーツがあるのか。  例え

杉山城~「戦国山城の最高傑作」

 埼玉県比企郡嵐山町にある杉山城。非常に技巧的な土の城である一方、歴史的な記録が皆無なため、「謎に満ちた名城」として知られる。  以前は、高度な築城技術でつくられていることから、北条氏の城ではないかと推測されていた。しかし、発掘調査では15世紀末~16世紀初頭の築城とみられることから、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築いたと考える方が蓋然性がある。  武蔵嵐山駅から徒歩40分。城まではほとんど平坦だが、やがて小高い丘が見えてくる。標高は95mくらい。山城は急峻ならいいわけ

越前朝倉氏の居城、一乗谷の歴史をご紹介(後編)

こんばんは、ゆうさいです。 今回は前回の投稿の後編です。 前編をまだお読みでない方は、先にそちらを読んでいただけるとわかりやすいので、まずはこちらをどうぞ。 1565年、足利義輝が松永久秀らによって暗殺されるという「永禄の変」が起こります。 朝倉義景さんは、大和国の松永久秀さんのもとに幽閉されていた義輝さんの弟、義秋さんの救出を助け居城のある一乗谷に迎え入れました。 義秋さんもその恩に報いるため、長年朝倉氏と敵対関係にあった加賀一向一揆との和睦を仲介し成立させるなど協