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福音を学ぶときのわたしの焦点:イエス・キリスト

今日から、わたしは自分のクリスチャンとしての福音学習の一部を皆さんに公開しようと思い立ちました。

42歳の誕生日:わたしの人生は喜びを得るためにある

今日1月29日はわたしの誕生日で、無事に42歳の朝を迎えることができました。一般的には「厄年」と言われる年齢になったわけですが、来年の今日を迎えたときに一年の間にわたしに降りかかった「厄」に目を向けるよりもずっと幸せな生き方をこの一年を通してしたいと思っています。

今わたしの思いには2つのことが浮かんでいます。

喜びは何が起こっているか、起こらないかではなく何に焦点を当てるか

ひとつは、数日前に妻と17歳の長男と一緒に話し合ったことです。その朝早く起きて3人で一緒にラッセル・M・ネルソンの言葉を読んでいました。
(長男は現在高校2年生で、自分の将来について少しずつ考え始めています。数か月前からこのように親子3人で一緒に話し合ったり、学んだりする個人的な時間を取るようになりました。)
その中で次のような言葉が目に留まりました。

聖徒とは,あらゆる状況において幸せでいられる人々なのです。ひどい1日や1週間,散々な1年を過ごしながらも,わたしたちは喜びを感じられます。

「喜び―霊的に生き抜く道」2016年10月末日聖徒イエス・キリスト教会総大会

こんなことが可能な「聖徒」とはどんな人のことでしょうか?聖徒とは、いわゆる聖人君主、特別な善行をおさめた人のことではなくイエス・キリストを信じ、イエス・キリストの後に倣おうとしている普通の人たちのことです。ネルソン大管長は続けています。

愛する兄弟姉妹の皆さん,わたしたちが感じる幸せは,生活の状況ではなく,生活の中で何に目を向けるかにかかっているのです。

…生活の中心を神の救いの計画とイエス・キリスト,主の福音に向けるなら,人生で何が起こっても―起こらなかったとしても―喜びを感じることができます。喜びは主から始まり,もたらされるものです。主はすべての喜びの源であられます。

「喜び―霊的に生き抜く道」2016年10月末日聖徒イエス・キリスト教会総大会

最近の数週間は長男と一緒に彼の将来について考えるために、何を人生の道しるべにしたいと思うかを話し合っていました。何をしたいか、何になりたいか、どんな目標を持って取り組むかの前に自分の幸せや成功を何によって測るか、自分の人生の中で何を大切にしたいと思うか、わたしたちの生き方に方向付けを与える「価値観」を明確にしてみようとすることを勧めていました。
そのような一連の会話の中で、彼と妻と一緒に「喜び」について話し合ったのです。
彼がどのような価値観を持っていきたいと思うかは彼自身に任せるとして、わたしはこの親子の会話の中から改めて自分の人生の焦点と喜びをイエス・キリストに基をもつものにしたいと感じたのを覚えています。

イエス・キリストのおかげで:わたしの幸せの根拠

もうひとつはわたしが年始や誕生日、人生の節目と思えるときに必ず読み返すモルモン書の1節です。(※モルモン書についてご存じない方はこちらを参照してください)
この箇所は、モルモン書の著者の一人ニーファイが自分の記録を終えるにあたり、どうしてもこれを書かずには終えられない!と書き加えた彼のもっとも大切な信条であり、彼の言葉を読む人への招きの言葉の一部です。わたしは人生の節目の日に、この聖句を今日まで歩んできた人生の道のりを思い浮かべながら読むようにしています。それはこんな言葉です。

もしキリストを信じる確固とした信仰をもってキリストの言葉に従い、人を救う力を備えておられるこの御方の功徳にひたすら頼らなかったならば、〈わたし〉は、ここまで進んで来ることさえできなかった…

モルモン書ニーファイ第二書31章19節

わたしの今日までの42年間を振り返ると、人生には様々なチャレンジがありました。しかし、それでもなお幸せな人生であると感じます。
わたし自身が今まさにいるここまで進んで来ることができたのは、イエス・キリストという御方のおかげだとはっきり言うことができます。このニーファイの言葉は、そのような意味でわたし自身の言葉でもあります。

聖文:イエス・キリストについて教える言葉

イエス・キリストがこのようにわたしにとって人生の焦点、方向付けを与えてくれるほど特別な存在となったことについて考えると、そこに「聖文」の存在があったことを無視することはできません。

「聖文」(Scriptures)とは、末日聖徒イエス・キリスト教会の「聖句ガイド」では次のように定義づけられています。

神の聖なる人々が聖霊に動かされて書いたり、話したりした言葉。

聖句ガイド「聖文」

新約聖書には次のように聖文の価値が教えられています。

あなたがたは、聖書(Scriptures)の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(イエス・キリスト)についてあかしをするものである。

新約聖書ヨハネによる福音書5章39節(口語訳)

また幼い時から、聖書(Scriptures)に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を、あなたがたに与えうる書物であることを知っている。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

新約聖書テモテへの第二の手紙3章15-16節(口語訳)

聖文はすべてキリストの実在と神性を証するものであり、わたしたちのキリストへの信仰を強め、キリストを通してもたらされる幸せにあずかるようにわたしたちを招くものです。
そのため、聖文を学ぶときにはいつも「イエス・キリスト」に焦点を当てることを意識することでもっと意義深い経験になっていきます。

眼鏡の経験:焦点を失った世界が一変する感動

わたしは高校生のころ眼鏡をかけることにあこがれていました。しかし、残念ながら、というか幸福にも、というか幼いころから目がいい子供でした。
しかし、大学受験を経てついにわたしの視力も低下してきました。
以前まではっきり見えていたものが見えなくなってきました。焦点が合わず、わたしの見る世界は少しずつぼやけたものになっていきました。いよいよ、ずっとあこがれてきた眼鏡をかける日がわたしにもやってきました。
きっとわたしと同じ感動を経験した人は山のようにいることでしょう。眼鏡をかけたその瞬間から世界が全く鮮明に見えるようになったのです。
レンズを通して見るだけで、焦点が定まり世界が変わるほどの経験をします。

聖文を「イエス・キリストに焦点を当てて」学ぶことは、それとよく似た経験になります。イエス・キリストとその教えというレンズを通して見るときに、これまでおぼろげだったものがもっとはっきり見えるようになる感動を経験することができるかもしれません。イエス・キリストに焦点を当てることで、自然と自分自身とその人生、自分を取り巻く世界への見方が変わり、自分の人となりさえ変わり始めているのに気づきます。

わたしは小さな時から聖文に触れながら、いろいろな紆余曲折を経て、しかし、ついにイエス・キリストという御方と個人的と出会うことができました。それはそれまでは広くぼんやりととらえていた視点が、ギューッと焦点を絞ってクローズアップされ細部にわたり観察するような、遠くにいた「世の救い主」が身近でわたしの隣を歩んでくださる「わたしの救い主」だと気づく経験です。

この42歳の朝に、再びわたしの焦点を救い主に向けることを心に決めました。そして、これまでもそうだったように、聖文を「キリストに焦点を当て」て学ぶことでそれを実践していきたいと思います。

1月29日、今日から…

そこで冒頭に戻ります。

今日から、わたしは自分のクリスチャンとしての福音学習の一部を皆さんに公開しようと思い立ちました。

これから公開される記事は、わたし個人の学びであり、その記録です。これが末日聖徒イエス・キリスト教会を代表する教義の解説でもなければ、福音の真理を定義づける試みでもありません。これらの記事の内容、聖文の解釈はすべてわたし個人に帰するもので、誤りや不正確なものがあればその責任はすべて筆者であるわたしによるところです。

これは個人的な信仰や信条を記すものであると同時に、わたしが普段実践している聖文研究のプロセスを可能な限り紹介するものでもあります。この記事を読むどなたかの個人的な聖文研究の参考になればと淡い期待をしつつ、願わくばその方のイエス様との個人的な出会いをほんの少しお手伝いできればと希望を抱いています。

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