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幸せと仮想現実

土曜に撮影現場へ向かい、お店の方に挨拶したら少し戸惑っているように見えた。
入り時間の15分前だったこともあり、お座りいただいてお待ちくださいとのことで、少し申し訳なくなった。
椅子に腰かけスマホでいろいろの確認をしていると目を見開いてしまった。

― 2時間早く来てしまった…

お店の方もそりゃ驚くだろう。
厳密には当初の撮影開始時間より2時間15分早くカメラマンがやってきたのだから…
お店の方に平謝りして、また2時間後に来ます!と伝えて外に出た。

近くに休める所はなく、重い荷物を担いで15分以上歩いた先のカフェでようやく腰を下ろせた。
今どきに矢印をつけるなら
「←今ここ」
である。

― 何をして時間を潰そう…

現場で使うノートパソコンがあるので、この文章を書くことにした。
ちょうど昨日OpenAIからSORAという動画生成AIの発表があった。
動画の生成AIは10年掛るのでは?と言われていたけど、まさかこんなに早く出てくるとは思わなかった。

改めて、これからどんな時代に入っていくのだろう…?
自分の仕事については以前に書いた気がするので、時間を潰すように妄想してみることにした。

例えば、今、目の前で恐らくご近所のおばさまが3名で談笑しているけど、リアルで会うこの瞬間は掛け替えのないことになるのだろうか?
若者の姿はAppleのVisionProのようなゴーグルをつけて、映画のマトリックスのように現実とは隔絶した仮想現実の世界で気の合う人と合流して、時間を楽しむのだろうか?
もし、そうなったら人ひとりが楽しめる空間は、現実と仮想を合わせたら何倍になるのだろう?
僕のように1人が好きな人間は、誰もいないスペースを見つけやすくなるのかもしれない。

もし、この鉄道の高架下のようなカフェで、数人の何気ない人を構成して、何人かがお店を出入りして、奥の席の誰かは大きめの声で談笑していて、横の男性は本を読んでいる。
こんな状況も思い通りに仮想現実で作れるのかもしれない。
でも、それは思い通りにできるという事で、それが楽しい人は良いかもしれないが、僕は楽しいとは思わないだろう。

簡単に思い通りになる事はつまらない。
表面的な外側の価値は膨れるかもしれないけど、内側に広がる裏側の価値は無くなるのかもしれない。
何でもそうだけど、陰と陽のバランスの中で存在していると思う。

また、ある専門家は人はAIによって神様に近づこうとしているのかもしれないと言ったりしているが、それは神様の価値が薄れる事を意味するようにも思える。
もともと特定の宗教に興味はないからいいのだけれど…

思い通りに作られたゲームのような世界は、それぞれの作り手が細部まで作りこんだ世界という名の部屋の中で、偶然性、驚き、裏切りをどう心地よく見せて、体験させられるのかが重要になって来るのかもしれない。

― そろそろ時間だ…

先ほどの現場に向かわなければ!

カフェから現場までの道中、メイン通りから離れた裏通りの思わぬ所に地下鉄の入口を発見して驚いた。
こんな所に入口があるとは…

撮影現場手前の道でニコニコしたホームレスのおじいちゃんとすれ違った。
とても幸せそうに見えた。

先ほどの現場に到着して、先ほどの事をまた平謝りする。
今日の現場は、おにぎり屋さんだった。
撮影後に、ご厚意でおにぎりを頂いた。
本当に美味しかった。
大阪で自分の中でのおにぎり屋さんが見つかって嬉しくなった。

―仮想現実ではどこまでできるのだろう?

そんな疑問が浮かんだと同時に、自分は現実の世界で幸せそうだなと思った。
大手を振っていう事ではないけど、この短い時間で感じることができた。
妙な納得感があった。

お土産のおにぎりまで頂いて、お礼を言って現場を出た。

地下鉄の駅までの道中、スマホから目を離さずに歩いている何人かの人とすれ違った。
イヤホンから流れるビル・エヴァンスを聞きながら、綺麗な夕日を見て、いい一日だったなと思いながら地下鉄に乗った。

今思うと、僕は仕事と言いながら、ただ世の中をフラフラしているだけなのかもしれない。
そう思ったとき、何故だか先ほどの幸せそうなホームレスのおじいちゃんが思い出された。
いい顔してたな。あのおじいちゃん。

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