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『貝に続く場所にて』:時空の綾に浮かんでは消える震災の記憶と心の痛み

東北大学文学部・文学研究科出身の石沢麻依さんの『貝に続く場所にて』が第165回芥川龍之介賞に選ばれた。同じ大学の者として、ことのほか嬉しい。もうひとり、台湾出身の李琴峰氏とのダブル受賞。報道の翌日には、仙台市内の書店では書籍が手に入らなくなり、お祝いのミニ展を予定していた附属図書館本館は慌てていたが、かろうじて1冊、ゲットできたらしい。私自身はさっさとKindleで落としたものの、週末まで時間が取れなかったのだが、ようやく日曜日にまとまった時間が取れた。

本書の主人公は宮城県の出身で、東北大学で西洋美術史を学び、修士の頃に東日本大震災を経験して、現在はドイツ在住ということから、どうしても作者の姿を重ねながら読むことになる。「震災の記憶」は本書の通奏低音だ。

ゲッティンゲンに住む主人公を訪ねて野宮という男性が訪ねてくるところから物語は始まるのだが、どうもその野宮は、当時、石巻で被災して行方不明になった後輩の幽霊らしいという設定。

ドイツの小都市ゲッティンゲンには2回、訪れたことがある。1回はMax Planck研究所に出向いてセミナー、現在、沖縄科学技術大学院大学(OIST)学長のピーター・グルース先生が当時、所長だった頃。もう1回は震災後の2013年で、日独六大学学長会議というイベントに関連した出張だった。ちなみに、実はゲッティンゲンは東北大学の初めての「教授会」が開催された地でもある。詳細は以下参照のこと。

本書では「記憶」についてのリアルとヴァーチャルが時間と空間が交錯した綾の間に現れる。野宮がゲッティンゲンで出会う寺田は、実は当時「月沈原」と呼ばれていた異なる時空を生きたはずの人物なのだが、物語では互いに会話し、それぞれが主人公と交流する。群像に掲載された原稿が講談社から刊行された書籍の表紙に、彗星の軌道が描かれているのも象徴的だ。人は運命の人と(それはリアルとは限らない)出会い、また離れていく。

主人公は9年経ってもなお、自分の気持の中の欠落した部分を埋めきれていない。あの頃、被災地と言われる地域にいた私たちは、誰かに挨拶をするたびに、互いの「被災度」を探り合ったものだった。相手が「うちの家は大丈夫だったのですが、親戚が亡くなって……」と言えば、より被害の酷かった相手に寄り添って話を聞き自分のことは話さず、そうでもなさそうだと感じ取れれば、「うちは本も食器もワインも落下して大変でした。しばらくガスも使えませんでしたしね……」と自分の被災を口にする。そうやって、"あの日"の記憶の形を整え、見せる角度を選んだものだった。

だが、そんな風に整理できない記憶もたくさんある。主人公にとっては、突然、いなくなった野宮が、"あの日"、何を考えたのか、もし今、生きていたらどう振る舞うのか、今まで「惑星」扱いだった冥王星が格下げされてしまったような、行き場のない記憶を、どう扱ったらよいのか、主人公はドイツの地でそれを考え続ける。

記憶の断片を掘り出す「トリュフ犬」という設定もユニークだが、奇妙なリアリティが感じられるのは、古の聖人たちの「持物(じもつ)」とイメージが交差しているからか。そんな風に、本書には何重もの仕掛けがある。ちょうど西洋絵画に様々な「寓意」のモチーフが散りばめられているように。

記憶は必ずしも楽しいものだけではない。人間は思い出したくない記憶を、何重にも包み込んで胸の奥にしまっておく性質がある。その方が生きやすいからだ。主人公とルームシェアしているアガータという女性は、母の死をめぐって姉との間に埋められない溝を感じていた。仕舞っていたその心の痛みもまた「母の記憶」としてトリュフ犬によって発掘され、地域の人々のネットワークのハブとなっているウルスラという女性の家の棚に載せられる。アガータがそれを持ち帰ることができるとき、辛い心の疼きはきっと薄れているのだろう。

私がまだ本書を消化しきれていない部分は、『貝に続く場所にて』というタイトルの解釈だ。「貝」は本書で何度も登場するモチーフとなっている。例えば言葉を聞く「耳」の形が貝に似ているというフレーズがある。石巻という海に続く土地という意味での貝、元漁師である聖ヤコブの持物としての帆立貝、そして、本書の後半ではウルスラが「貝」をテーマに夕食会を開催し、主人公はお持たせとして「貝型」のマドレーヌを焼く。『失われた時を求めて』のプルーストに引っ掛けていることは明瞭すぎて、その裏に隠されたモノが何なのかがわからない。ウルスラがメインディッシュにしたムール貝のワイン蒸しを食べた野宮が「ウェヌスが誕生しそうなくらいの美味しさ」と引用した、ボッティチェッリの一般には『ヴィーナスの誕生』と呼ばれる傑作は、再生のイメージを伴う。「貝に続く場所」がどこなのか、まだ一つ、私の中では落ち着きどころが見つからない。

主人公(著者)が西洋美術史の研究者であるという背景から、本書では色々な絵画や建造物が取り上げられる。例えば、震災時に学部3年生だった野宮が卒業研究で取り上げたかったという絵は、アルブレヒト・アルトドルファーによって描かれた『アレクサンダー大王の戦い』。この絵の上半分を占める暗く青い海と空の色合いー若干の朱も含むーは、東日本大震災が起きた当時の石巻の海岸を思い出させるものだと瞬時に感じた。"あの日"の思いを主人公と、そして筆者と共有した気持ちになった。

さらに物語の中で織りなされる時空の綾の中には、夏目漱石、そしてその愛弟子であった物理学者、寺田寅彦へのオマージュが見え隠れする。気になる方はもう一度、『三四郎』を読み直してみると楽しいだろう。そういう意味では、やはり漱石に見いだされた芥川龍之介の名前を冠した賞は、筆者にとってことのほか嬉しかったのではないだろうか。

ちなみに、東北大学は漱石に縁があり、「漱石文庫」は附属図書館の重要なコレクションの1つである。

時間と空間の間を漂う記憶を扱う本書は、きっと映画化されたら面白いと思う。トリュフ犬によって取り出された遺物がウルスラの家に陳列されている様子、皆が揃って冥王星のオブジェがあった場所を目指してピクニックに行く様子など、リアルとヴァーチャルがどのように表現されるのか観てみたい。

加筆(2021.10.9)

上記、最初に読んだときに、「貝に続く場所」がゲッティンゲンのどこなのか、あるいは、なぜ内陸の町であるゲッティンゲンが「貝に続く場所」なのか、よくわからなかったのだが、その後、本書がAudibleになっているのに気づいて「聴き直して」みた。

どうも読み飛ばしてしまったのだが、聖ヤコブ教会の石畳に、巡礼者聖ヤコブの持物である帆立貝が埋め込まれているのだった。惑星の小径をGoogleさんで検索していたら、ちょうどそれらしき画像が見つかった(下記リンク先にある投稿画像)。

これでようやくピースが嵌り、野宮の故郷である石巻と、遥か遠いゲッティンゲンが繋がって、私の中で落ち着きが生まれた。

Audibleで聴いてみると、目で文字を追いかけるのとまた違う情景が立ち上がるのが興味深い。

それにしても、本書にはいくつもの寓意や伏線が折り重なっていて、ゴシック様式だと感じた。あるいは、何度も絵の具を塗り足した絵画か。







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