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人間関係は「線」ではなく、「グラデーション」

時間やタイミングによって、人との心地いい関わり方や距離感って変化する。友人、恋人、職場の人、家族、、自分以外の人、すべてに於いて。

『好きだから、知りたい。』
そう思ったこともあったけど、今は好きだからこそ少しの余白があった方がいい、って思うようになった。好きだからこその余白。
距離の取り方、接し方は人それぞれだから何が正解とかはないけれど。

週末に久々に友人2人と再会する。
ひとりは中学、高校が一緒。大学も、留学先も一緒。だけど絶妙にクラスが違ったり、タイミングがずれて学生時代はそこまで関わりがなかった。『あ、知ってるよ』、程度。しかし社会人になって偶然再会し、お互いにことあるごとに声を掛け合い近況報告するようになった。週末会う理由も彼女の退職祝いだ。

もうひとりは留学先のアメリカの大学で偶然友だちになった、アメリカ人の友人。もう友人歴も7年になる。その7年のなかで、私は帰国して大学を卒業。東京で働くようになった。一方で彼女もアメリカの大学を卒業し、来日を決意。今では埼玉県で英語を教えている。知り合った当時はお互いに想像もできなかった未来の世界の中で、今、励まし合って生き延びている。コンスタントに同じ濃度で交わりが続いていて、お互いの誕生日にテキストを送ったり、たまに雑談で日常の出来事を話している。

はじめは本当に薄かったけれど、数年の月日を超えて交わる色が濃くなった友人がいれば、ずーっと一定に続く友人もいる。一方で、突如目の前に現れて非常に濃く交わって、ある転機をきっかけに消えていった縁もある。将来、再び交わることがあるかもしれないし、今後一切交わることがないかもしれない。

縁ってつくづく色みたいだ。赤色と青色が混ざってきれいに紫になることもあれば、赤色と緑色で反発してしまうこともある。交わりが薄いこともあれば濃ゆいときもある。でも、それでいい。それがいい。

「関係構築、こうであるべき!」に縛られると、息苦しくなってしまう。来るものは拒まず、去る者は追わず。

どんなに分かり合えても、自分以外の人はみんな他人だ。
それぞれの人生を歩む中で共有する時間を得ることができるのであれば、それは実は奇跡的なことだし、その限られた時間をどれほど味わい尽くせるのかが人間関係を楽しむ醍醐味のような気がしている。

境界線は、敢えて決めない。
そして、他人に求めすぎない。
それが心地よく過ごせる秘訣なのかもしれないって最近思う。だって持っている色がそれぞれ違うんだもの。

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