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004.「バリバリ」の闘いから降りることを決めた

2年ほど前に書いたブログの記事タイトルは「DINKsの生存戦略」だった。

私たち夫婦は、子どもが自然にはできない上に、妻側は子どもが苦手というコウノトリに愛されないふたりだ。
何度も何度も夫婦で話し合って、「であればここはがんばらないで、他の方法で社会に貢献しようぜ」という結論を出した。

仕事で成果を出し、子育てを頑張るひとたちの働き方の選択肢を増やせないか。
頑張って働いてしっかり税金を納めて、社会の力になれないか。
余裕がある分は寄付なんかして。

さらに私は、自分たち夫婦を「ジェンダーから自由」にしたいと思っていた。「女だから仕事をセーブ」して「男を支える」、「男だから家計を支える」など、まっぴらごめんだ。

そうやって、夫も自分も、仕事上の成果や成功を目指そうと思っていた。

のだが。

私の自律神経失調症とHSP症状が顕著になってきて、今まで思い描いていた「子なし夫婦」像が崩れてきた。
これまで、「バリキャリの夫」×「バリキャリの妻」の組み合わせをイメージしていた。
だが、疲れやすく、そのくせ多趣味の私と、「バリキャリの妻」という言葉が日に日に合致しなくなっていく。

「バリキャリ」?「ゆるキャリ」?

「働く」ことは楽しいと思う。
でも、会社員としての私は「定時を過ぎてもいい、何時間でも没頭したい」というタイプではない。
最近では定時で帰宅しながら出世、成果を出す、という掛け声はさほど珍しくもないけれど、どうしてもゼロベースで企画するような「価値を生み出す」仕事は、「24時間闘えます!」というタイプの人に集中していると思う。

そうした深夜特急のような働き方が、本人にとっては「持続可能だ」としても、HSP気質の私は、一緒にいるだけでぐったりしてしまう。

私も、ある程度は信頼して任せてもらえているとは思うけれど、結局評価されたり、いざとなった時選ばれるのは「バリバリ音がするほど働くひと」の方であって、「自分ではないんだな」と感じていた。

そしてそれを、ひどく不公平なことのように感じていた。

それは、深夜に特急を走らせることができなくても、(通常の営業時間内であれば)必要があれば特急を走らせるような仕事もしているからだ。
そもそも業務外の時間帯に当然のように働いていること自体が異常なのでは?深夜特急についていくことができない人を切り捨てる価値観には納得していない、いや、したくない。
時間外も闘い続ける無尽蔵の体力がある人と、疲れやすく定時までしか闘えない私とではアウトプットの量が違って当然ではないか。
結局長時間働くことで成果を出す人を評価するなら、これまで先人たちが健康的に働き、生きるために健闘してきた歴史を無駄にするようなことなのではないか……。

        * * *

先日、外出先で急な吐き気に襲われ、家族との食事会に参加できなかった。
貧血のようなこの症状は人生で3回目である。

通勤中の電車で降りることはザラだし、刺激が多かった日は一人になる時間が必要だ。
30代になり、不得意なことはわかってきたが、年々疲れやすさは増していて、できないことも増えてきている。

「私、多分これからもバリバリ働けないと思う。
…性別関係なく、あなたと同じように働きたかったけど、できそうにない。給与上がらないと思うし、負担かけてごめん。」

夫にこう伝えると、少し驚いた表情でこう言われた。

「いいじゃん、自分のペースで。」
「そもそも、二人ともバリバリ働くことを二人の将来としてイメージしていたわけではないよ。
ゆるりと働くなんて一番あなたにいいじゃない」

その時わかったのだが、「二人してバリキャリ」、をイメージしていたは自分だけだったのだ。
ゆるキャリ×DINKsを肯定できていないのは、社会の方ではなく、もしかしたら自分の方だったのかもしれない。

それは、おそらく子どもを持たないことで「社会の義務」を放棄しているような気がしていたからだ。
それさえできないなら、せめて仕事で必死に働かないと許されないと思っていた。
だが、「許してくれない」のは誰なのだろう。

今までも、「バリキャリ」でも「ゆるキャリ」でもない、その間で、と言っていた。
でも、当の本人は、限りなく「バリキャリ」寄りの自分をイメージしていた。
しかもそのことにさえ、気づいていなかった。

会社など環境、近くにいる人(特に上司)の価値観によっても、「バリバリ」「ゆるめ」の定義も異なってくるだろう。
少なくとも今は、どうしても「バリバリ」に方向性を振ってしまいそうな自分を理解し、できることを誠実にやることを大切にしたい。
このことで「バリバリ」仕事をするのが好きなわけではない自分を認めて、バリバリと仕事ができないことを認めていこう。
これが「バリバリ」からの闘いから降りることだ。

一方で、仕事には手を抜くわけではない。
担当する仕事はまず上司からのアサインありきなので、適切に自分の状況を伝えるようにしていくこと。
そのうえで、可能な範囲で自己実現を図ること。そして時には、頭ではなく心を使って他者とコミュニケーションし、自分の枠を飛び出してみること。

それから、働く時には「バリバリと音が聞こえてきそうな働き方はしない」
このことをマイルールに加えたい。

「明日納品なのに、事故が!」という日には、そりゃあバリバリもするだろう。
でも通常業務の日までクライマックス状態では、一緒にいる人も萎縮するし、
何より自分が、余裕がなくなって脇道を見落とす気がする。
一生懸命な人は好感が持てるかもしれないが、一緒にいて面白いのは、緩急のあるひとだ。

心と体を守り、自分の好きだと思える時間を大切にすること。
一方で、一緒に働く人に誠実でいること。
自分にも人にも誠実でいることが、自分なりの「持続可能な働き方」だと思う。

このことで昇給、昇進が遠のいても構わない。
この点について、社会一般の価値観と合致しなくても、無理に合わせるのを放棄していく。

アフターファイブや休日に耕した自分自身と、ワークで頑張る自分自身は別人ではない。ワークも含めたライフだ。
音楽や文章やアートを愛する自分を、諦めたくはない。

これからの家族のかたち

実の親のことは愛しているし愛されているけれど、私が選んだ家族は「夫」ただ一人だ。
その意味で、「何かあったときに一番に優先するのは夫だからね」と宣言している。

正直なところ、最近になって「あれ、私…ちょっと仕事頑張れるタイプじゃないかも…!」と気づいた時には
かなり焦りを感じた。

自分がバリバリ働けないことで、夫の足を引っ張っているような気がして
申し訳ない気持ちになっていた。
一方的に彼の能力を搾取しているようで、迷惑をかけている、負担をかけている…こんなことならいっそ消えてしまいたい、と思っていた。

だが、そんな私に
「そんなこと言わないでよ…幸せならいいでしょう?」
とまっすぐな言葉をくれた彼との生活を思うと、
どうにも濁音のついたオノマトペを、自分が抱えているのは似合わないように思えた。

この暮らしにはただただ、そよそよ、とでも言うべきような
穏やかな流れがあるように思える。

おそらく、これからも私たちはふたり家族だが、
大切な友達やお互いの家族とゆるやかに繋がりながら過ごしていきたい。
このささやかな願いに「戦略」が必要な社会にはしたくないと思う。

誰かに子どもが生まれたと聞けば祝福したいし、この世界に歓迎したいと心から思う。
全ての子どもが誕生を喜ばれ、必要であれば応援や支援を受けられる世の中にしたい。

ただし、その「幸福」を持たないことを選んだ私たちが、
それにとって代わる成功を追うことを求められたり、別の「幸福」に代わるもののために努力を強いられるのは、窮屈だ。
家庭に子どもがいる人も、いない人も、すでに子どもが巣立った人も、家庭を持たない人も、みんなそれぞれの人生の幸福を享受できるといいなと思う。
その幸福に子どもの存在は関係がないはずだ。

まずは足元から。
一緒に生きる夫と、一緒に価値観のアップデートを図ること。
たくさん相談して、たくさん話したい。
子どもを持つか決めた、あの時と同じように。

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