"都合よく" 使う/使われる/使ってもらうということについて
今日バスで移動中に、ふと「”都合よく”使ってもらう」にはどうしたら良いのかな... って思いが頭に浮かびました。と、同時に、"都合よく"という言葉は、友人(年上で凄く助けてもらってる)が言ってくれた言葉なのだと思い出しました。
助けてもらう事を躊躇したり遠慮しがちな私に「私のことは都合よく使って!いいんだよ!」「無理な時は無理だし言うから。」と声をかけてくれました。実際に今まで、たくさん相談に乗ってもらってて、助けてくれていて、理由無しに断られたりしたことは一度もありません。
「”都合よく”使ってくれていいよ。」という言葉は、
人を困らせちゃいけない、迷惑かけたらいけない、自分で何とかしなきゃいけない などで縛られていた私を、自分には価値が無いのだから と思い込んでいた私を助けてくれました。
どうしてだろう?
私がひとに頼ったり、相談したりが出来なくなったのは、どうしてだろう?って考えてみました。幼少期〜14歳頃までは母子家庭だったので、沢山のひとに助けてもらっていたけど、それに対して必要以上に申し訳ないと思ったことはありませんでした。いろんな状況に応じて、周りの大人に相談したり頼ったりということが出来ていたと思います。
それが出来なくなったのは、母親と養父の影響だと思います。
・私は親に”都合よく使われた”という意識がある
・社会は家より厳しいよ!と言われていた
・親しい年上の人がいるからって、その人がSenaを養ってくれるの!? 迷惑でしょ!! 分からないの!?と言われていた
他にも色々な理由があって、助けてもらう事を躊躇したり必要以上に遠慮したりするようになった気がします。
でも今は、社会は家より理不尽な事が少なくて、優しいところもある/助けてくれる仕組みもある と分かりました。
思考傾向...
都合よく使われた(マイナスの感情)[受動的]
都合よく使ってもらった(プラスの感情)[能動的]
この2つは別々に考えて良いことが分かりました。
私は、
都合よく使われているのに そう感じる事を許されない、
受動的なのに能動的な態度で行動する必要がある ということに違和感を感じていたことから、ひとにはそういう思いをさせないように・・・という思考傾向があるのだと思います。
"都合よく”使ってもらう
ここ数年で時々、”都合よく"使ってくれていいんだよ と
心から思う時がありました。
「助けて」が言えない辛さ、「話を聞いて」が言えない苦しさ、
誰にも頼れないという絶望感・・・
それは本当に こころが痛くて息が出来ない真っ暗な世界 だと実感し、
[ 死 ] が光や希望に見える その世界を体感したからです。
そして、その世界にいる時に届く言葉は
「”都合よく”使って」みたいに、強い言葉で良いのだと思っています。
いますぐ私が出来る事は多くありません・・・
でも、
・情報を調べてまとめて提供すること(得意分野です!)
・選択肢を一緒に考えたり、客観的な視線を伝える事
・対話をすること(勉強/練習します...!)
・寄り添って話を聞くこと(これが一番大切だと私は思います)
などなど出来る事はあるはずだし、
なによりも、
”都合よく"使ってもらうためには、どうしたらいいか
(どのように伝えるか & どのように自分をセット/管理するか)
ということには、答えが無いのかもしれないけど、ずっと考えていきたいと思いました。
またまた長くなってしまいました・・・汗
日々の生活の中で、沢山の考え/思いが浮かんでくるので、noteを書く事で、浮かんできたことについて改めて考えてみる というきっかけになってます。
読んで下さってありがとうございます!
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