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【こばなし】愛とはなにか

「先週会った時より、しぼんだ、やつれたって感じだったから心配で。笑顔が笑顔じゃなかった。何かあった?」
近くに住む友人から、先ほど電話があった。彼女には昨日ばったり会って、いつも通り明るく振る舞えていたと思っていたので、こんな風にすぐに気づかれてしまって驚いた。

今わたしが所属するコミュニティでは、しばしば「愛」を感じる。キリスト教の精神に基づいている機関ということもあり、みんなで聖書や対話を通して「愛」について考えることも多い。先日の「愛といえばゲーム」は、すさまじい盛り上がりを見せた。「愛といえば◯◯」をみんなで出し合い、「なるほど」「これは名答」という回答に高得点をつけ、チーム対抗で競い合うものである。このようなゲームが盛り上がるのも、「愛」について日頃からよく話し合っているからだと思う。

ここでは、誰かが悩んでいたり悲しかったりする時は、誰かがそれに気づき、寄り添うようなあたたかい雰囲気がある。ただ隣に座り、一緒にいる。必要があれば話を聞く。心を寄せる。共感する。肯定する。ハグをする。そんなことが、ごく自然に、当たり前にされている。そしてそれによって、自分は大切にされている、愛されていると感じるのだから不思議だ。

そもそもここで生活するまで、「愛とはなにか」なんて、考えたこともなかった。「愛」なんて、口にするのも小っ恥ずかしかった。恋のように対象は限定的ではなく、家族や友人、どんなものでも愛することができる。恋のように、一緒にいてときめいたりドキドキしたり、相手が自分を好きでいてくれるか不安になったりするのは、愛ではないような気もする。そもそも広辞苑によると、「恋」は「一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。」だそうだ。なんとなく、現代の人たちが考えるような「恋」とは違う感じだ。一方で、聖書の有名な箇所では、「愛」はこう表される。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリント信徒への手紙-13章4節〜7節)

愛は求めるものではなく、与えるもの。与えたからといって、見返りを求めない。頭ではわかっているつもりでも、愛していれば、愛されたいと思ってしまう。「もっとこうしてくれたら良いのに」と期待し、求めてしまう。「無償の愛」、「無条件の愛」といえば聞こえは良いが、一方通行なんて辛いし、それが続くとイライラしたり好意が薄れたり、恨むことだってあるだろう。そうなれば関係性を維持することすら難しい。


先日ある人から、「世界中のみんなが持っているものは何か」という難しい問いがあった。クリスチャンであるアメリカ人が、「Love」だと答えた。わたしも、みんなも、愛を持っているのだろうか。

こんなことを考えずに死ぬ人って、たくさんいるんだろうなぁ。でもわたしも、声をかけてくれた彼女のように、まずは周りの人のちょっとした変化に敏感でありたいと思う。そして、自分が相手のために何か「してあげた」から、相手にもこう「して欲しい」、と求めない。難しいけれど、これを目標にしていきたい。


「隣人を自分のように愛しなさい」は、まだまだわからないことだらけ。ありのままの自分を受け入れて愛さなければ、他人を愛することもできないことは、頭では理解できる。これもなかなか難しい。
・・・「愛」についての思考は、これからも続きそうだ。


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