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卒倒の当日(小説)

優しい猫は鳴き声を出した。鳴き声だったのだと思う。でも一般的な猫の鳴き声とは程遠かった。無理矢理日本語にするなら、ぽうんとか、そぅんとかになると思う。私は猫に近寄って、優しく撫でた。猫は全く離れなかったから、私はその猫を、優しい猫と名付けた。

 猫は死にそうだった。既に死んでいるのかもしれなかった。身体はまだ温かかったが、それは余熱かもしれなかった。私のトレンチコートで猫を包んであげようかとも思ったが、そんな事をすれば私が死んでしまいそうだった。それに、猫を温める事に、それほど意味を感じなかった。

 私は猫を暫く見ていた。暫く見ていたら、いつの間にか時間が経っていて、満月が南に達していた。猫は、息をしているようには見えなかった。肺が動いていれば、お腹が少しは動くのではないかと思ったが、お腹はびくともしなかった。猫は物になっていった。私はアスファルトに横たわる猫を撫でた。温かいような、冷たいような、そんな感じだった。

 ふと、猫の目を見た。目が、開いていた。さっきまでは閉じていたのに。私は猫の目を見た。猫は目を閉じて、元に戻った。猫は再び、物になろうとしていた。

 私は忘れないだろう。私の目が猫の目を捉えた時、猫の黒目は大きくなって。白目を追い出した。そうやって猫は、最後に思い切り生きた。それは私にしか伝わらなかったし、その事に大した意味はなかった。猫は最後に、私に大きく怯えて、それで卒倒したに過ぎなかった。

 私は、その時が来るまで生きていこうと思った。

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