見出し画像

マネジメントは個性ではなく、習性に寄り添え

私が1つ自慢できることがあるとすると、それは他の経営者やマーケターと比較して、マネジメントに費やした時間が相当多かったということだろうと思う。だからといって自身のマネジメントが圧倒的に優れているとは口が裂けても言えないし、今の直下のメンバーがこれを読みだしたら出だしの3行でお茶を吹き出すことは間違いないという自信すらある。私は雑だ。

ただ、私は自分自身の弱点を理解しているし(※1)、だからこそ、それに見合うマネジメント方法を模索し続けた。その結果、さまざまなことが見えてきていて、その一部をこのnoteで公開することはいつか誰かの役に立つと思った。なぜなら、直近でこの話を10人近くに話す機会に恵まれたからだ。

(※1)私は相当な直感型なマーケティング及びマネジメントを行っていることにある日気づいた。故に、私と仕事をするメンバーは恐らく伝えられる情報量の少なさに絶望する。このことを昔は「ライオンの子育て」と例えていたが、なんでもない。ただただマネジメントが下手糞なだけだ。そういったこともあり、明確な基準とルールを作り、情報が少ない状況でも判断できるメンバーにアサインしてもらい、手に余る事象が起きればいつでもフォローすることを約束することで、その弱点を補っている。

ではなぜマネジメントに費やした時間が他の人より多いのかで言うと、それは自社のマネジメントのみならず、クライアントサイドのマネジメントに口出すこともあったからだし(※2)、アドバイスを要望されることもあるからだ。結果的に、数多くの組織のマネジメントに関わり、多くのビフォーアフターを見てきた。

(※2)組織が圧倒的な成果を上げるためには既存の評価制度をいじる事が必要不可欠なケースが往々にしてある。その結果、他社のマネジメントに口を出す機会がある。

その集大成というにはまだほど遠いのだけれど、マネジメントとはなんなのかと問われれば、今の私であれば表題通り、マネジメントは個性ではなく、習性に寄り添うことだと答えるだろう。

もっと具体的に解説すると、マネジメントとは、個性を理解し、承認しつつ、習性に寄り添うこと。個性とは他の人と違ったその人特有の性質や性格、または個人の特性を指す。習性とは、習慣によってできあがった性質や、くせ、動物のそれぞれの種に一般的に認められる行動様式だ。

マネジメントサイドが疲弊する時、決まって共通点があるように思う。それは、習性を無視し、個性に向き合い過ぎている、という点だ。

何故、個性よりも習性に向き合うべきなのか?

マネジメントサイドが疲弊する時、その圧倒的No.1が人間の習性に気をかけず、メンバーの個性に向き合いすぎて疲弊するということだと思っている。当然だ、100人いれば100種類の個性がある。多くの哲学者が結論づけているように、人間は本質的に自由に生きたいと願う生き物だから、そんな自分勝手な個性に真正面から向き合っていたら体も心も何個あっても足りるわけがないのだ。

勘違いしてほしくないのは、これは何も個人の話を聞き過ぎるなとか、個性を無視しろという話ではないし、別に個性に向き合う事自体を否定する話ではない。その人の個性を理解し、承認してあげる。何が好きで何が苦手なのか、あわよくばやりたい方向性については可能な限り加味してあげられる環境で、更にその個性を伸ばしてあげることができるのであれば尚良という話であり、これは上司として当然の仕事であると言える。

実際に個性を殺してはいけない。現代において誰も個性を殺してほしいなどとは思っていないのだから。

個性には上記のように向き合い、その上で寄り添うのは個性よりも習性の方であるべきだ。100人いれば100通りある個性に対し、繰り返しになるが習性とは、習慣によってできあがった性質や、くせ、動物のそれぞれの種に一般的に認められる行動様式だから、人間という動物としての習性というのは多くのパターンは存在しないと言える。また、その殆どの事柄は歴史が証明していると言えるだろう。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。そして聖人は経験から悟る。オットー・フォン・ビスマルク

多数決ではろくな提案が出ない理由

よく知られた話ではあるが、優れた人たちが個々に意思決定することは大抵の場合は正しい解を導き出す。しかし、この優れた人たちが話し合い、結論を出す、といった一連の流れを通ると頓珍漢な歪んだ結論を導き出すことが往々にしてある。

われわれ一人ひとりの気が狂うことは稀である。
しかし、集団・政党・国家・時代においては、日常茶飯事なのだ。ニーチェ

これは群集心理と言えるかもしれないし、私自身も幾度となくニーチェが言うようなケースを目の当たりにしてきた。これはその人たちが馬鹿とか阿保とかそういう次元の話なのではなく、最早人間の習性としか言いようがない。人は集まるとろくな判断をしないのだ。それがどれだけ賢い人達であったとしても。

であるとするならば、その習性を理解し、そのような意思決定を行わぬようにすることで大抵の問題は避けられる。これこそが習性を理解し、習性に寄り添うということだろう。

そういった意味において、独裁というものに私は好意的だ。勿論、独裁は独裁で容易に引き継ぐことができない、といった別の大きな問題を抱えていることは否めないが、その代だけの繁栄を願うのであれば最も優れた手法と言えるだろう。

※独裁を独裁と微塵も感じさせないようなプロセスやテクニックというものが世の中にはある。それは本題とはずれるので機会があればまた別の機会に書きたい。

少し話がそれるが、人間の習性により決まってしまうことの一つに選挙がある。昨今のフェイクメディア問題やプライバシー保護の動きもそれらに起因するが、選挙と野球の話は飲み屋とネットでしないと父に誓って上京したので今回の言及は避ける事にする。

まとめ

以前、私が考えていたことがゴールデンカムイの中で紹介されていて大変驚いたことがある。

個性と習性は別だ...習性を知り尽くせばこちらの有利に働く。二瓶鉄造

「冬眠中の羆も魘される悪夢の熊撃ち」と呼ばれるこの二瓶は熊と対峙する際に必要なのは個性を知るのも大事だが習性を知り尽くすことで有利に働くのだと言った。私はそれは人間に対しても全く同じだと思う。個性を尊重することはとても大事だが、個性にだけ寄り添っていては永遠に取れ高を得ることはなく、再現性は得られない。疲弊してしまうのはその為だ。

今回の記事では世の中には人間の習性により決まってしまっていることが山ほどある、そんなことを伝えたかった。人間としての思考は時代によって多少の違いはあれど、大きくは変わらない。人間は昔から自由に生きたいと思う生き物であるし、その自由という個性は十人十色であることも変わってない。

であるとすれば、マネジメントにおいて大事な事はその人独自の個性を理解し、承認しつつ、習性に寄り添うことだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?