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20年以上生きて、運動というコンテンツの面白さを知る

最近ぼくは、運動することにハマってしまっている。

仕事の昼休みには職場の人達と卓球に興じ、仕事終わりにはランニングをしている。休日にはテニスやバドミントンをしちゃったりなんかしている。

なぜハマって”しまった”。という後悔の念を含む言い方になったかというと、過去の自分に申し訳が立たないからだ。

ぼくは今まで自分のことを、根暗、ひきこもり、オタク、インターネット最高!!今すぐ薄暗い部屋で青白いライトを浴びろ!!!!
と評価していた。

事実、中学時代はその様な生活をしていたし、幼少期病弱だったこともあり、運動の習慣がなかった。さらに、ラノベ主人公の影響をモロに受けていたので、そういう自分に酔っていた。もちろんずっと厨二病だった訳じゃないけど、長い間そんな生活を続けていたので、ほんとにラノベ主人公の生活様式に近づいていたのだ!(でも美少女魔法使いに使い魔として呼び出されることもなかったし、奉仕部に加入することも叶わなかった。)

そんな人格形成期もあったことで、高校でも大学でも、なんとなーく心の奥底ではサッカー部が嫌いだったし、休日に運動?関係ないね…みたいな考え方だった。

そんな過去の自分が、今の自分を見たら軽蔑するだろう。「休日に仲間たちとスポーツとか陽キャじゃん。ていうか、社会人デビューとかしてんなよ、キモ。」という自分の声が聞こえてくる。

過去の自分、ごめん。でも、インドアキャラって、アイデンティティにするには薄いし、なんのアドバンテージもないんだよ…という過去の自分への言い訳が繰り広げられている。と共に、過去の自分の視野の狭さというか、偏見の多さないし想像力の乏しさにうんざりする。大学で運動サークルに所属している奴=自分とは考え方がまるっきり違う、というレッテルを貼り、どんな相手か知ろうともしなかった。

そんなぼくが、運動はじめた。たったそれだけなのに、ぼくの人生では衝撃的な出来事であることが伝わっただろうか。

ちなみに何故ハマってしまったのかを説明すると、なんだか体を動かすと、何か自分の本能的な部分、野性的な部分が喜んでいる気がするからだ。人間って狩猟とかをしていたはずだから、遺伝子レベルで運動をすることが喜びの種類として組み込まれているのかもしれない。

運動をすると錆びついた部分に油をさされた感覚になる。その感覚を覚えると逆に、デスクでカタカタパソコン打ったり、日々の生活に忙殺していると、なんだか体が愚鈍に、鈍くなっていく部分があるな〜と意識してしまう。

呼吸が苦しくなったり、汗が吹き出して毛穴が開いたり、口から血の味がしたり。運動って手足まで自分のものになった感覚というか、嫌でも自分の体が自分の所有だと言うことを再認識させられる。スマホで意識が画面に向けられることが多くなったからだろうか。

この喜びは、キャンプに行ったときの喜びと似ている。自分で拠点を作って、火を起こして、料理して、自然を感じて…みたいな。自分で生活するシステムを構築すると、生きてる!!!!!!って感じがする。仕事して口座の預金が増えていくより、全然生を実感する。実際は預金の方が生きていくのに必要なんだけどね。

でも別に運動しろ!!みんな!ってスタンスではない。生を実感するのって、多種多様だろうしね。なんかソシャゲのガチャで生を実感する人も多いみたいだし。

あーあ、12月のマラソン大会にエントリーした。なんて話したら、昔のぼくは失望するだろうなぁ…


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