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【いまさら読書感想文】自分を作るのは、かけられなかった言葉たちだ/百年泥

海外 もしくは異世界でもよいのだけれど、そういった場所を舞台にした小説を、ちょっと自分は苦手としている。苦手というのは「嫌い」ではなく、イメージを汲み取るのに時間を要するからだ。ここはどういう場所?どういう風景?などといちいち調べるので進みが遅い。

それでも読むのは、自分の知らない世界がハッキリとそこにあるからかもしれない。意を決して飛び込んで、翻弄されながらも水面から顔を出した時には役に立つかどうかもわからない雑学を身につけていたりもする。

ただ、今作については真正面から物事を受け止めてはいけない部分が多かった。危ない危ない。


#百年泥

#石井遊佳

#新潮社


あらすじ

豪雨が続いて百年に一度の洪水がもたらしたものは、圧倒的な“泥”だった。南インド、チェンナイで若いIT技術者達に日本語を教える「私」は、川の向こうの会社を目指し、見物人をかきわけ、橋を渡り始める。百年の泥はありとあらゆるものを呑み込んでいた。ウイスキーボトル、人魚のミイラ、大阪万博記念コイン、そして哀しみさえも…。新潮新人賞、芥川賞の二冠に輝いた話題沸騰の問題作。


まず、かなりユーモアにあふれた文体だ。いちいち発される皮肉、ジョークにお笑いのセンスを感じる。

例えば百年に一度の洪水に転勤早々見舞われたのに「自分は果報者だ」と言ったり、借金返済のためにチェンナイで企業の日本語教師をやりなさいと元夫に言われた時も「日本語教育に関し未経験であることでは誰にも負けない私」と言ったり。クスッとくる一節がちりばめられている。作者自身も関西人らしく、こういったものを織り交ぜているようだ。

また、今作はネットでは「マジックリアリズム」と呼ばれている。文学や美術で、神話や幻想などの非日常・非現実的なできごとを緻密なリアリズムで表現する技法…と、Wikipedia先生が仰っている通り、一見インドでの出来事を書く作品かと思いきや急に非現実が舞い込んでくる

具体的には

・インド人の上級国民は翼を購入し、それをつけて空から通勤している

・大阪とインドが姉妹国家のようになり大阪のマネキネコとインドのガネーシャが総とっかえになる

・洪水後の体積した泥からどんどんといなくなったはずの人たちが掘り出される

などなど。

最初はひどく混乱した。「え?インドってマジでそういうところ?」と考えてしまう。作者に「してやられた!」と思う瞬間だ。「ああ、そういう設定なのね」で片づけてしまえば割とすんなり読める。いちいち理屈をはっつけて、設定や発言の整合性をとろうとするほうが野暮だ。

また、インドの情景や、日本語を学ぶ生徒たちの様子もわかりやすくユーモアに描かれており、文化的な違いなども、恐らく一部ではあるが掬い取ることができる。生徒でいえば、生意気な生徒「デーヴァラージ」は特に面白い…というか人間らしいキャラクターだ。そしてそれを客観的に見つめている主人公もまた、作者を映しているようで興味がわいてくる。

そういったインドの風景や人々を映しながらではあるが、この話のメインは先の具体例にあげたとおり、百年に一度の洪水がひいたあとに堆積された泥だ。

この泥に眠る、数々の人間(!)、思いや人生を巡る(というか、触れる?)ことにある。

泥からは主人公の過去の思い出の品や、「デーヴァラージ」の思い出の品が掘り起こされる。基本的には自分のものであるが、知るはずのない思い出にまで触れ、想起していくことになる。

エピソードはどれも、感傷的な想いにさせてくれる。特にデーヴァラージの部分は彼の境遇 深層心理に涙が出そうになる。

主人公も、普通はない自分 それを恥じず確かに存在している自分。そして、自分がなぜここに存在出来ているのかを語る。

具体的な内容は避けるが、特にこの話の肝となっている部分は以下の三つにあると考える。

「私にとってはるかにだいじなのは話されなかったことばであり、あったかもしれないことばの方だ。この世界に生れ落ちてから、ついに<なぜ>が私を見つけ出す以前の、二度ともどらない母との無音の時間の方だ」
「かつて綴られなかった手紙、眺められなかった風景、聞かれなかった歌。話されなかったことば、濡れなかった雨、ふれられなかった唇が、百年泥だ。」
「どうやらわたしたちの人生は、どこどう掘り返そうがもはや不特定多数の人生の貼り合わせ繋ぎ合わせ、万象繰り合わせのうえかろうじてなりたつものとしか考えられず」

人々の、思いの累積。あったかもしれない物語。複数の人生の澱。それが、百年泥。

そして、それらは自分を構成するものでもあるかもしれない。

デーヴァラージの過去も、母との思い出もすべて、本当はそんなもの主人公の妄想であり幻聴かもしれない。それでも、そうであったかもしれない世界の方が、よっぽど今よりも尊いものではないのか?言葉にされなかった現実に思いをはせて、そういったものが実は自分を作り上げていたりするのではないか。

あるインタビューでは、作者はこれらを「刹那滅」と表現していた。

「いろいろな存在がぐちゃぐちゃに交じり合った「私」が瞬間瞬間に生まれては死んでいるという考え方です。」
「生まれては死んでという激しい動きの瞬間を繰り返しながら、無限の過去から無限の未来にかけて業の流れとして続いていく。そのなかの「今この一瞬」というのが私たちの姿、というイメージ」

…まあ、書いていてなんのこっちゃと思う。どうやら仏教に分類される考え方のようだ。ただ、彼女のこの思想が小説で表現したかったことなんだと、よくわかる。


自分を形成するものは、親であったり環境であったりすることは間違いない。…でも、それがふとした瞬間に失われた時、「あの時のあの人は、あの場所は、こういった理由をもってそこに存在していたかもしれない」と考える。

実は今の自分を支えているのは重力がのしかかり体重を与えている地面なのではなく、そういった思いの数々であり、その上に自分は立っているものなのかもしれない。

そこに目をやった時に、主人公がこういった生き方を選択するのも頷ける。

人々の思いの堆積、百年泥。

インドの洪水 その後に残った泥を通してここまで思いを馳せれることは感服でしかない。頭の構造が根本から違う…!

教養溢れた思想 そして、心の奥にじんわり響くエピソードが遠回しな表現は用いずにナンセンスなユーモアを交えた文体で、サラりと書かれている本作。誰かがこの本を読むときは、その泥の意味を自分に照らし合わせたうえで考えてもらいたいなと、思った。

それでは、また。

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