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くらしのアナキズム

【一文要約】

国家に包摂された生活(国家任せの生活)を見直し、人と人の関係性にもとづいたくらしをしていこうじゃないか。

【146文字要約】

このところ頻繁に見舞われる色々な災害を経験してみると、わたしたちの生活の安全を国家の力だけに頼ってはいられないということに気がつき始める。だとすれば災害時だけでなく、普段の生活の場面場面において、目の前の人と互いに助け合って生きていくことの意味と価値を今一度考え直してみてもいいのではないか。

【1020文字要約】

現在国家政府で行われている多数決による民主主義は、実は「真の民主主義」とはほど遠いものだ。現行の多数決による民主主義で議決後に残るのは、生かされた多数意見の主張者と生かされなかった少数意見の主張者との間に生じる分断だけになっているのではないか。そもそも民主主義という概念は国家という概念とは無関係に生まれたものであって、民主主義と国家を結合させることは不可能なのだ。ある集団がなんとかやっていこうとするとき、その実践として民主主義という方法が生まれるであって、そこに国家は必要ない。これが国家なき社会の研究=アナキズムから民主主義を考えうる理由である。つまりアナキズムと民主主義はおおむね同じものなのだ。

真に民主的な政治とは、だれもが自分の意見を無視されたと感じないようなコンセンサスにもとづく政治だ。そうしたコンセンサスを得るためには、その必要が生じる場面(集団としての意思決定をする場面)に至る前に、その集団の暮らしのなかの関係性や場を「耕し」ておくことが欠かせない。そうした「耕し」のメソッドは、なにげない日常のなかに埋もれている。誰の日常も個人や家庭に閉じこめられていてはならない。個人の日常が閉じこめられず、周りに「もれて」いくこと、そうした「もれ」をうながし、うまく「すくいとる」ことができる技法をその集団が心得ていること。「他人に迷惑をかけてはいけない」のではなく、「他人に迷惑をかける」ことをまず肯定することが「もれる」社会への一歩となる。

国家が自分の手柄であるかのような顔をしている「民主主義」や「自由」、「平等」といった価値は、国家内部の動きから実現したものではない。むしろそれへの抵抗や逸脱の結果として生まれた。家庭にも働く場にも、自由や平等を損ない、自分の感覚を奪おうとする力は潜んでいる。その「いやな感じ」にちゃんと反応して機敏に動けるか、日頃から別の安全な居場所を仲間とともに耕しておけるか。それが分かれ目になる。

よりよいルールに変えるには、ときに既存のルールを破らないといけない。なんのためにぼくらは生きているのか、それを考えるなら、ルールを守るという「真面目」さと、生きることに従うという「真面目」さ、ぼくらはなにに「真面目」であるべきだろう?

ひとりで問題に対処できなくなるまえに、一緒に不真面目になってくれる仲間をみつけ、そのささやかなつながりの場や関係を耕しておく。それが、くらしのアナキズムへの一歩だ。

【543字感想】

平易なことばでつづられているが(なんと言っても漢字が少ない)、その内容はゴツゴツとした手応えのある真っ当さそのもので、その真っ当さが真摯に導かれてあることが美しい。

どこかの村や部族や海賊たちの営みにこそ、誰も取りこぼさない民主主義が見いだせる、という指摘には刮目させられた。こうした集団でなされている民主主義の実践を見ていると、進化論のミニチュアに似て、当初提出された様々な意見から、時間をかけた話し合い(試行錯誤)というフィルターを通して新しい生命体が生まれ出るようなイメージを抱いてしまう。プログラミングでいう遺伝型アルゴリズムのように、不思議だけど数百世代を経たのちに条件に適合する組み合わせが生まれるような。意見という単位で構成されたDNAかタンパク質のような有機的ななにか。民主主義は言論上での分子生物学なのかもしれない。

そもそも多数決という考え方がどうやって生まれたのか、そしてそれがどういう過程で民主主義に取り込まれ、民主主義の経典に祭り上げられたのか知りたくなった。

著者の提唱する「くらしのアナキズム」の雰囲気はわかった。すごくいいと思う。あとはわたしたちがそれをわたしたちのくらしのなかで地道に実践していくだけだ。時に不真面目に、時に遊びながら、誰にでも話しかけつつ。


松村圭一郎、2021年、ミシマ社

<参考サイト>
・好書好日「「くらしのアナキズム」書評 不真面目さが育む民主的な社会」
https://book.asahi.com/article/14489534

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