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自分の内側の少女を思い出す、そして泣く

「もっと上手な人が集まる有名なバレエ教室に移ろう。」突然母親からの提案に戸惑ったことと、大好きな地元のバレエ教室を離れることにとても悲しかったことをお風呂に入りながら突然思い出した。

忘れていなかったけれど、それはもうすでに痛みを伴っていないと思っていたから自分の記憶の中の大事なリストとして頻繁に上がってくるものではなかった。けれどその思い出とともに幼いことから習っていたバレエ教室では自由にのびのびと表現することの楽しさと喜びが自分に還ってきました。

音楽のもつ美しさを表現することや、役柄になりきって踊る楽しさ

そこには技術的な完成度はなかったかもしれないけれど、確実に心が震える自分がいました。

「あ~私が本当にしたかったことは、ただ内側の感じたものの表現だったのだな」

と、その感覚を思い出しながら、当時の自分を想って泣きそうになりました。

身体の作りがバレエを踊ることに向いていた自分は、決して正しい指導法ではないバレエ教室でも頭角を現しオーディションやコンクールで賞を取ってきてしまっていました。そこで出てきたのがこの母の言葉。もったいないと。

自分が楽しく踊る時代が終わり、上手だと認めれれるために踊る時代がやってきたことに当時の自分は気が付かないままにシフトしていき。

なぜ楽しくなくなっていったのか、なぜコンプレックスに苛まれるようになったのか

ぼんやりしながら、それらを言葉にはならない「感覚」でリアルに感じました。

「感じる」ことは「自分」からの発信で自分のためのものであり

「上手」に踊ることは「他者」の期待のためのものであり、私の内側からのでてきたものではないこと

この違いが少しずつ、澱のように重なって自分を重くしていったのだなと

今、踊りたいかといたいかと言われれば踊りたいわけではない

けれど、誰の目も気にせず自分の内側から湧き出てくる感情を制限なく蓋することなく

アウトプットしたい気持ちがあふれていて、しかしどうしたらいいか忘れそうになっている。

今当時の自分が家で夢中になって踊り、表現している姿を見たら愛おしい気持ちになるだろう。けれど

「恥ずかしい」

そんな気持ちが出てきたのはきっと「上手く」なることが目的にすり替わったときからだ。

「一人でなりきってて恥ずかしいよ。」

「何踊っているの?」

そんな他人の声はより大事な声は自分の内側の声だったのにね。

だから私のピラティスは「何をするか?」ってことが最大の大事なことではない

「何を感じるか?」という「感じる力」を育むことがやりたくてやっている。

そしてそれが多くの人の本質に還ることの手助けになることを信じている。自分の内側のいる少女の自分を助けてあげたい気持ちが今このピラティスとなってすべては線でつながっていることに嬉しく思う。

全てのシーンを一瞬一瞬じっくり味わおう。




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