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SNSは僕の遺書

書くことが好きだった」なんて、かっこいいセリフは呟けない。思い返せば僕は、ずっと孤独だった。人を信用できず、誰にも相談できない。所構わず体を傷つけたり、どんな死に方をしよう?という考えがずっと脳の片隅にあった。

「助けて」とか「寂しい」が言えなかったあの頃の僕は、書くことで誰かに気づいてもらおうとしていた。中学生の頃は、LINEの一言欄がよく長文で埋まっていたのも懐かしい。

そもそも、書くことは大っ嫌いだった。小学生の頃、夏休みの最終日に泣きながら読書感想文を書いたのをまだ覚えている。時計の針は深夜0時ごろを指していて、書いても書いても兄貴に消されては書き直した。嫌すぎてたくさん涙を流した。それでも、最後のマスがしっかり「。」で終わるように綺麗に書き終えた。次の日の始業式では、寝不足のまま、書き終えた読書感想文を先生に提出した。

この経験が、今でも文を書くということの原動力になっているのかもしれない。

その読書感想文は、賞を取った。全校生徒の前で賞状を受け取ることになり、読書感想文で?なんて、自分でも不思議に思っていた覚えもある。幼いながらも、それからは何かと本を読んだりするようになっていた。素直に嬉しかったから。

それから、中学校を卒業して高校生になろうとしていた頃の僕は、本気で死のうとしていた。原因は、受験が大失敗に終わったから。ただそれだけ。その時に、仲の良かった友達とか、好きな人とか友達に向けての手紙をメモに書いた。遺書とも呼べるそれは、結果的に公開されずに今も携帯のメモアプリの中で眠っている。

高校一年生の頃から僕は、何かあったら死ねばいいやという、軽いけど重い考えの上に生活している。良い言い方をする時は、「生きた証を残したいんだ」なんて言い方をしたりする。

別に何か病に苦しんでいるわけでもないが、死にたくなったら行動してしまう自分の性格とか、過去にあった交通事故とか様々経験を通して「いつ死ぬか分からない。どうせ死ぬなら生きた証を残したい」と思うようになった。

笹子トンネルの崩落事故の少し前、笹子トンネルを通過していたという事実。コロナウイルスは大切な人を沢山奪っていった。ウィンカーを出さずに曲がった車に自転車に乗ってた僕がぶつかった。警察に言われた言葉が「あと少し侵入のスピードが早かったら車の下敷きになって死んでたかもね」病みながらホームに立ち、特急電車に吸い込まれそうになったあの日、カッターナイフを持った人に追い込まれたあの日、医者の一言「心臓に穴空いてますね」とか。

僕たちは、全てひっくるめて「しぬ」という悪魔との見えない契約の上で生きているのだから、明日が来なくなる予告はない。残しておきたい今日の思い出は、SNSに勝手に残している。全ては遺書のような存在だ。曲作りも、写真も、YouTubeに載せている動画も、鍵垢のInstagramも全部、この記事ですら僕の中では遺書の一部分だ。言葉が軽率に聞こえた人には、失礼だと言われるかもしれないが、もしかしたら僕の中の創作って、まだ遺書づくりなのかもしれない。

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