新しい結婚のカタチ、シェア婚 〜仕事も恋もがんばったアラフォーの話〜⑥

やめます。その時になんと言われたか、想像にお任せします。悪口を書くつもりはないのです。今では元夫に感謝していますから。ただ、たくさん泣きました。情けなかった。悲しかった。

だるま落としって知ってます?

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こんな感じ、最後に崩れた。

私の我慢というのか、私は、自分で、我慢の限界をここに決めたんです。幼かったから。

夫にとっては、いつもの調子。悪くない。悪いのは私。今思い出すとですね。

でもあのときは、静かに決意してしまったんです。「離婚だ」と。

「もう、傷付けられたくない」が正しいのであって、それが「離婚」となるのは、とても勿体ない話です。でもそのときは、もう、そこにいるのが嫌だった。きれいな家なんて、何の意味もない。一緒にいる人が信頼し合えないなんて、もう無理だ。

たんたんと準備を整え、私は子どもを連れて家を出ました。早かれ遅かれなら、早い方がいい。という持論。離婚は協議で進みました。私は何にもいらないから、と。

双方の決め事は、・親権は夫、養育権は私  ・私は実家に戻らないこと(子どもに会いにくくなるから)・養育費は基本なし  ・週末は夫と子どもで過ごす    もともと、家事をしない人ですから、養育者にはならないと分かってたんです。

私の生みの母は、私が幼稚園の年長のとき、離婚して子どもを置いて出ていきました。高校のときに一度会いましたが、離婚と入れ替わりに来た今の母に悪いので、一切会わなくなりました。両親の喧嘩、泣く母、別れの日のシーンはトラウマのように私を支配していました。祖母は私を可愛がりました。でも、引き離されました。子どもにはあんな寂しい思いはさせない。それだけは絶対に。その気持ちは夫も同じでした。

その母からもらった手紙のフレーズで、忘れられないものがあります。「人間は、何かと戦っているときが、1番幸せです」

どういう意味なのか、ずっと考えて、時間が経つほどに深みを増す言葉です。たぶん、40歳くらいの母の言葉。

シングルマザーになってしまった。という不安より、新しく出直せる期待感や安心感。住まいは2DKの長屋。家賃は超格安。職場の人の紹介で、直接大家さんに貸してもらえました。大家さんは地元の土地持ちで、物件も自分で管理されていました。丁寧に掃除して風を通した長屋は、よく言えばアンティーク、アジアン雑貨との相性もよく、快適な住空間。3人なら充分。

そこでの暮らしはホノボノしていました。隣続きのお母さんや大家さんは優しい。旬の野菜をもらい、子どもを気にかけてもらい、ステキな田舎暮らしさながら。夏には近くの小川に蛍が出て、それをみんなで眺めたり、町内会のお祭りもアットホーム。

前の家でもきっとできたはず。でも、余裕がなかった。ひとり親ということで、市からも手当が出たり、税金の支払いが免除されたり、意外と出費は抑えられます。仕事を、少し楽なパートに変わりました。いろいろ、見失なってしまっていた。

ほどなくして、恋も始めちゃいました。彼との出会いはまた不思議で。職場の人だったんだけど、よくよく話を聞くと、うちの父の下で働いたことがあり、うちの実家に来たこともあったり、もともと縁があったんでしょう。でも私は30過ぎの二児のシンママ。彼は24歳だったんです。しかもイケメン。

私はイケメンに警戒心がありました。というのも父がとってもモテた人で。イケメン=女性を大切にしない、って偏見があったんです。でも、冒険心? ただ好き、それだけでも今はいい!と突っ走ってみたくなったのです。

仕事も恋もこれからだ!



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