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短編|僕は消えたかった

 <読了:約13分>

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 大学最後の秋。夕暮れ時は決まって行き場のない、寂しい気持ちになった。
 斜陽とともにマインドは傾き、俯いたまま薄暗いキャンパスを歩いた。

 誰も僕を知らないし、僕も誰も知らない。本当は僕だって、僕が誰かはわかっていなかった。

 「何の価値もない」
 「存在が無意味だ」
 「消えてしまえばいい」

 そう思うと、全身で無力を感じ、そして少しだけ笑えるのだった。

ーーー
 上京して数ヶ月。その間にタバコも酒も覚えたし、自炊用のフライパンも幾分汚れてきた。友達と呼べる人も何人かできた。

 哲学科の友達は変わったやつばかりで、会ったって何も残りはしないが、ただただお互いが時間を消費し合った。そこになんだか安心感みたいなものがあり、僕らはその感覚によく寄りかかった。モラトリアムをモラトリアムとして、完璧に享受しようという意志のようなものが僕らにはあった。

 進学校出身の奴らが多かったし、皆なんとなく受験時に傷のようなものを負っていて、心なしか疲れた顔をしていた。
 みんな有名国立大志望だったのに、気づけばバブルの弾けた後の観光地のような、うら淋しい私大に落ちこぼれてしまったことに落胆しているように見えた。

 特に仲の良かった2つ上のタイショウと1つ上のショウワは、浪人していた分、僕より人生への諦念は強いようだった。
 二人は年下の僕をヘイセイと呼んだ。

 タイショウは高校時代から成績優秀、打ち込んできた剣道の腕前も全国レベル、高身長、イケメンという申し分ない男。
 ショウワは有名な進学校の男子校出身で、笑いのセンスは抜群、どんな女子も話せば上機嫌になり、次に会う約束をして別れるような、ナイスガイというやつだ。

 本来であればなんの苦労も無く、文字通り生き生きとしたキャンパスライフを送るはずの彼らと、そして僕だったが、共通して自意識が著しく高く、自己肯定感が飛び抜けて低いという破滅思考のせいで、非常に不安定な(これも文字通り)日々を送ることとなった。

 僕らの日常は破滅のモヤに常に怯えているようであったし、その甘美なケムリを麻薬のように弄んでいるようでもあった。
 僕らはよく、可愛い子の多い街角や、美しい風景の前で包み隠さず「破滅」し合った。

 大学1年の冬の日。「もうだめだ。破滅した。」と携帯電話を見ていたショウワが唐突に言った。
 ちょうどテレビゲームの中では小さな勇者が、3ステージ目のボスを倒そうとしているところで、僕は生返事をしたに過ぎなかった。返事と一緒に、さっき食べたラーメンのゲップが出た。

 勇者が巨大な敵をなんとか打ち負かし、無事にセーブポイントを通過したところで、僕はなぜ破滅したのかを聞いてみた。
 「サークルの後輩女子からメールが帰ってこないんよ。もう灰になってしまいたいわ。」と彼は言った。惚れやすいショウワの、いつもの破滅パターンだ。
 僕は気の毒そうな顔をして、タバコを一本譲ってやった。そして冷蔵庫からコーラを3本出してきた。そろそろタイショウが来る時間なのだ。

 しばらくすると、アパートのドアをノックする音がして、大量のビールとつまみを持ったタイショウが入ってきた。
 それらを机にドサッと置くと、「遅くなってすまん。授業の後図書館で調べものしてたんだ。最近ドゥルーズにハマっちゃって…」と話し始めたが、ショウワがそれを遮るように「タイショウや。ビールはいいけどもうキムチは飽きたよ。」と大量のキムチを指さしながら言った。
「キムチがあれば他のつまみはいらない、それが親の遺言なんだよ。」とおそらく冗談と思われることをタイショウは真面目な顔で言った。
 その話を聞いてか聞かずか、ショウワは礼も言わずにアサヒの350ml缶を二本取り、一本を僕へ寄こして、「ヘイセイ。つれない後輩女子のことなんて炭酸ごと腹に入れちまおう。乾杯。」と言って、封を切って飲みだした。
 タイショウは怪訝そうな顔をしていたが、僕が目配せをすると、何かを察したらしく、もう何も聞かなかった。

 僕らはさっきのコーラと、ビールを混ぜた飲み物をそれぞれで作り、タバコを吸いながら飲んだ。
 この飲み物が「ディーゼル」という名前なのは後で知ったが、当時はタバコに合うという理由で仲間内で流行っていた。

 ショウワはタバコに火を点けながらもっともらしく言った。
「最近読んだ本によ。なかなかいいことが書いてあったんだけど。想像力は移動距離に比例するって言うんだ。俺、それめちゃくちゃわかるんだよね。」
「それってつまり旅をすると、今まで知らなかったものに触れるし、感性が刺激されるってことかしら。」タイショウは本当にキムチが好きらしく、もうほとんど食べてしまった。
「そう。それに比べて俺たちはどうだろう。この街の半径10km以内からほとんど出ていないんだぜ。」
「しょうがない。その中に大学もコンビニも、ラーメン屋だってあるんだから。」僕は近所のラーメン屋を愛しているのだ。魚介豚骨のつけ麺が売りだが、あえてその店の中華そばを頼むのが定番だった。
「そうなんだ。つまり便利すぎるんだよ。そんなに急いでラーメン屋に行く必要があるか?コンビニに置かれているものが世の中すべての商品じゃないんだぜ。」
「そりゃそうだね。なるほどショウワくんは、己のクリエイティビティが、この自堕落な生活の中で衰えていっている感覚があるというわけだ。」タイショウの言葉に、ショウワは大きく頷いた。
「じゃあどうする?どこか行くにも金もないよ。」と僕が言うと、ショウワは饒舌な口ぶりで言った。
「飛行機も新幹線も金で時間を買っているから高いんだ。その分電車は安い。特に各駅停車だけで行く『青春18切符』ってのがある。時間があることだけが僕らの取り柄じゃないか。僕らには絶好の移動手段さ。そしてもう行く場所も決めてある。とりあえず北に行こう。僕らには南の陽気な雰囲気より、寡黙で思慮深い北の地が向いているのさ。」
そして僕らは、次の週末、北を目指して電車に乗り込んだ。

 それが僕らの最初の旅であり、その後思い立ったように各駅停車の旅によく出かけた。

 無論、僕らの会話にそれと言って意味がないように、それらの旅行にだって、今思い返せば意味なんてものは沸き起こってこなかった。
ただ僕らは電車の中でひたすらトランプをし、酒を飲み、適当に観光をし、ほどよく破滅した。

 そんな旅行が、大学3年までで7回くらいあっただろうか。
 僕らは時間が無限にある様な気がしていたし、実際に時間は湧水のごとく無限にあった。

 しかし、大学3年も終わりに近づくと、僕らの日常は少しずつ変わっていった。
 立て付けの悪い家の隙間風のように、「社会の匂い」みたいなものが、フワリと生活のほころびから入り込むようになってきた。

 僕も周りの空気を読んで、リクルートスーツを新調し、就職説明会のようなものに行くようになった。
 他の二人もなんとなくそんな様子があったけど、どこを目指してるとかはお互い言うことはなかった。
 僕は、僕ら自身の自己否定が顕在化してしまうような気がして、後ろめたいような気持ちで日々を過ごした。

 そんな中、僕は地元の銀行の内定をもらい、なんとなく「そこに行くのかな」と思うようになった。自分のこととはいえ、どこか縁の遠い、他人の未来を想像する感覚だった。


 大学4年の夏、突然ショウワが久しぶりに会おうと言ってきた。
 前は週に2、3回会っていたのに、3人が顔を合わせるのは2ヶ月ぶりだった。

 ショウワのアパートに集まり、テーブルにはコーラとビール。それを飲むのもなんだか久しぶりだった。久しぶりに会ったショウワはこんがりと日焼けをしていた。

 そして乾杯をして開口一番、「俺は沖縄に行こうと思う。」と言った。
 最初は旅行かなんかだと思って、タイショウも僕も行けばいいじゃん、と言って笑ったけど、ショウワの声は真面目だった。
「俺は沖縄で漁師になる。もうツテも見つけた。来週から行こうと思う。」
「来週って、大学はどうするんだ?」タイショウはキムチを食べる手を止めて聞いた。
「実はもう退学した。」
 僕は驚き過ぎてタバコの灰を落としてしまった。「どうして今なんだよ。卒業してからでいいじゃないか。」
「大卒の漁師も中退の漁師も、あんまり変わらないだろ。」
 本当にそうなのかはわからないが、もう退学したなら止めようがない。それまでに相談も何も無かったことが、少し寂しく感じられた。

 聞けば、最近沖縄でとれるトロピカルな魚が、アジア諸国に高く売れるそうなのだ。
 その後も彼は、沖縄の素晴らしさや歴史について熱っぽく語ったが、僕の頭には入ってこなかった。
 ただ、北の大地に思慮深さを求めて旅をしていた彼と、沖縄の海で陽気に漁師をする彼がどうしても重ならなかったのだ。
 おそらく何度か沖縄に行って日焼けしたのだろうが、快活に話すショウワの声が遠くに感じられた。
 いや、彼は楽しそうに言ってはいるが、ここに至るまでに、相当悩んだに違いない。目には希望と同時に諦めのような色が伺えた。

 僕とタイショウは、沖縄に出発する日と電車の時間を聞いて、それぞれの家路についた。

 ショウワが沖縄に行ってしまってから、僕とタイショウが二人で会ったのは数回きりだった。
 話が盛り上がってきても、ふと気づくと旅行に行った頃の思い出話になり、「あいつ元気かな」とタイショウが遠い目をすると、僕も黙ってしまって、そこで話が終わってしまうのだった。


 タイショウに最後に会ったのは、大学4年の冬だった。
 地道に就職活動を続けていた彼は、横浜にある学術系の出版社に就職することになったと話してくれた。もともと何かを調べることが好きで、勉強熱心な彼だ。きっと素晴らしい編集者になるに違いなかった。
 僕らはお祝いも兼ねて大いに飲んだ。

 僕はといえば、地元の銀行の内定を断り、もう1年大学に残ることを決めた。
 決めた、と言っても消去法でそうなっただけだ。社会に出た後のどんな未来も、自分のものとは思えなかった。もう少しだけ、何者でもない自分でありたかったのかもしれない。
 タイショウはそんな僕を「ゆっくりでいいんじゃないかな。ヘイセイらしいよ。」と励ましてくれた。

 そして大学4年間が終わり、その春に彼は神奈川へ引っ越した。僕はそのまま、今までのアパートに残った。
 僕だけがそのまま、何も変わらなかった。


 年度が変わると、大学内は一気に騒がしくなった。
 僕は新しい季節に馴染めないまま、授業のある日は一人でキャンパス内を俯いて歩いた。

 ふと、すれ違う学生を誰も知らないことに気がついた。
 サークルにも入っていなかった僕は、同級生が居なくなってしまえば、全く知り合いがいなくなってしまったのだ。そんなことわかっていたはずなのに、知らない時代にタイムスリップした様な感覚があった。


 たまに、よく3人で行ったラーメン屋に一人で入ってみることがあった。今まで気づかなかったけれど、奥にも席があったんだとか、壁にこんな絵が飾ってあったんだとか、新たな発見がいくつかあった。
 それは、みんながゲームをクリアしていくのに、自分だけが同じダンジョンをぐるぐる回って、新しいアイテムを探し続けているような、空虚な宝探しを思わせた。


 大学最後の秋が来ても、僕は深い悲しみと寂しさの中にあった。いっそ消えてしまいたいと思った。
 紅葉が美しく、その下を歩くかわいい女子を見て、「破滅した」と小さく呟いてみた。消えてしまいたいほど惨めで寂しいのに、なんだか笑ってしまう自分がいた。
 今の僕には何もない。学生であるという身分以外、僕の存在を規定する物は何もなかった。そして、僕を意味づけてくれる友人もいない。誰ももう、僕をヘイセイと呼んではくれない。

 しかし、だ。
 誰もいなくなってしまったけど、僕がこれから少し遠回りをしていくことだけは決まっている。
 僕はスロースターターなのだ。
 みんなが走り出した後、ゆっくり歩きながら周りの景色を見たり、足元を気にしながら歩くのだ。その中で美しい花や、つまらない石ころに気づくこともあるだろう。それは僕にしか見つけられない、僕の存在に意味をくれるものになるはずだ。

 俯いていた顔を上げると、空には白い月が夜を待っていた。

 僕はもう待っているわけにはいかない。
 時間が過ぎるのを待っているだけの時間は、とうに終わってしまったのだ。

 そして僕は走らないにしても、歩き続けなければならない。歩き続けて、僕を必要としてくれる誰かに、また出会わなければならないのだ。

 僕は帰りに、コンビニでコーラとビールを買った。つまみは缶詰の焼き鳥にした。

 そしてふと、本当はキムチが苦手だったことを思い出し、また少しだけ笑った。

(終)

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