11/14 完全ワイヤレスイヤホンと老いと金魚の話
//リブレス / 小林私 #NowPlaying
完全ワイヤレスイヤホンを買いました。
耳を塞がれて、静かめの曲のちいさなおとを聞いていると、自分の呼吸音が気になります。
鼻炎なので人よりうるさいと思うし、マスクのため(もうなぜマスクを使うのか書かなくて当然の日々ですね、怖)に音が酷くなってるとも思う。
//ぴえん
ゆえに、生々しい自分の呼吸音のために、どうも「シラケて」しまって、憂鬱の言葉を手繰るより、命の生々しさを探る毎日があります。
文学的な、言語的な思考、そして言葉にする憂鬱、それを超えて脳の表裏に現れてくる「生のリアリティ」が私の鼻と口から漏れているように感じるのです。
どれだけ言葉をこねくり回したって、動物のように鼻息はそこにあって、人間の都合による「マスク」をしたって聞こてくる。
//だからnote放置していたという前置きにすぎません
//が、前置きは往々にして本題に繋がるのです
//VOID / 大森靖子 #NowPlaying
「が、」という逆説的に使われる接頭辞を、小学校の教師に注意されたことを思い出しました。
当然ですが、本来は「〜だが、」「〜。ですが、」と使います。
「が、」というのは「〜だが、」が分断されたゆえに文頭に来たのか、「〜。ですが、」がくっついてしまったのか、どちらかの為によく使われている誤用でしょう。
この例はまだいいですが、世の中にはもっと広まった誤用というものが存在します。
最近Twitterのニュース速報みたいな公式アカウント(livedoorニュース、nhkのやつとか)をトレンドで見かける度、そのリプライ欄を確認しています。
結構な高確率で「失笑」とあります。
文脈を見るに、鼻で笑う・呆れるの意味合いで使っている彼らを見て、私は笑ってしまいます。
失笑は、本来笑ってはいけない場面で笑ってしまうことを指します。うっかり笑ってしまうというイメージ。
それに対し、世間的には呆れた、笑えない、という意味合いが通用します。
かくいう私も、「あー、これ呆れの意味合いで使ってるなあ」と理解できる時点で誤用が「通用 」しているのが歯がゆいところです。
ちょっとググッたら60%の人がこの慣用句の意味を間違えているみたいです。じゃあもうそれが正解でいいじゃんね。
わたし、逆張りオタクなので、
基本的にえらそーな大人が苦手です。
これは自分の持つマイノリティの部分が、そういうえらそーな大人に封殺されてきたという過去があります。
だから、えらそーな大人が、言葉の誤用を指摘して「今の若者ガー」「言葉の乱れガー」「美しい言語ガー」なんて言ってるのを見ると心底愉快です。失笑します。
しかしながら、逆張りはだいたい陰キャのやることであり、いざ自分の誤用を面と向かって指摘されると、顔を赤くして黙るしかありません。
まず口を金魚のようにパクパクしてから、改めて積み木みたいな反論を組みたてて、ジェンガのごとく崩されます。
//陰キャくん顔真っ赤!wってやつ
//真っ赤な金魚は和金がシンプルでいちばんかわいいです。
//うちの子可愛すぎるから死んだら唐揚げにして食べるんだ
//蘭鋳 / MUCC #NowPlaying
最近えらそーな大人を見ると、こいつも逆張りの陰キャくんだった過去があるのか…?なんて思います。
それだったら親近感が湧くし、嫌な大人を見てこうはならないぞと言いつつもなってしまった例なのかな、とか、私はこうはならないぞと改めて思ったりします。
大概そいつの履歴を見ると御立派なので、ウッッッザと逆張りし続けますが。
でもそんなやつもいずれ死ぬんですよね。
御立派なえらそーな大人が世間と乖離して嘆いてるのが老いの証明。すなわち寿命へののぼり階段。
若さはいつだって時流のど真ん中で渦巻いていて、その渦は老いたものを半自動で吹き飛ばしている。
そのうち死ぬなら優しくしてあげたいですね。
これは正直生き物全てにてきようできますが。
さらには、いずれ壊れてしまう家電にも。
うちの壊れかけ洗濯機すら愛そう。万物への慈しみ。主はきませり。
これが過去から未来へ連綿と続く、永遠の道徳ってやつです。
自分で言っといて永遠の道徳ってなんなんでしょう。
超大袋のポテチはすぐなくなるし、横浜駅の工事は多分終わるし、太陽はいずれ爆発するし、核廃棄物ですらいずれ半減期を終えるのに、道徳なんて永遠に続くんでしょうか?
道徳自体の形が変わっていくかもしれないが、そこにあり続ける、とエラソーな大人は言いますが、その変容を許容できないのがお前らじゃないんですか?
//仮想敵を作り嫌な言葉を語らせ、論破することで満悦
//陰キャくん、キッモ……
結局、永遠とは、知覚している主体の命そのものだと私は思います。
命の終わりを知覚する瞬間、はあっても、命の終わりを知覚したことのある生命体、は存在しません。ゾンビなのでそれ。
終わるまでそれは永遠です。なにせ終わったあとには丸ごと消えるので。
だからたとえ命自体に終わりがあっても、終わりの後を当人が知覚できないという意味合いで、命(それは知覚も包括する)は永遠です。
私が自分の呼吸音に圧倒的生命を感じ、怯えてアイロニーも吹き飛ばされるのは、この「永遠」というものが身近にあるという途方もなさ、なんじゃないかな、などと思っています。
綺麗に冒頭と繋げてみましたがどうでしょうか。
本当は
非常に現実的な話をすると、家を出て駅に向かうときに、イヤホンをつけて音楽を聴き始めて、ちょうど静かなイントロにさしかかるところで病院の前を歩くコースになります。
この病院、救急患者がそこそこ運び込まれてくるもので、救急車がちょーどサイレン鳴らしながら入ってくるところにもまれによく遭遇します。(稀によくある)
そういう記憶の積み重ねが、私の中で命の運び込み、命の終わり間際をその道路に刷り込ませていて、余計に自分の呼吸音が気になるのかも。
まあにしたっても、いっちゃん悪いのは鼻炎だわな。
ぴえーん。
//籠の鳥 / BIN #NowPlaying
//八月、某、月明り / ヨルシカ #NowPlaying
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