7/23 朝もや(朝にモヤっとした朝靄のような掴みどころがない)話

死は知覚不可能だよなあ、、、ってぼんやり考えてたら生誕も知覚不可能なことにいきなり気付いちゃって、私が生まれたことにすら疑問を抱いてほんとに怖くなってしまった 命の始まりと終わりは観測する他者の存在が前提で、むしろ私個人の意識では感覚のみを根拠としているからただ「在る」だけじゃん

歴史は逆毛を1度しか立てられないカーペットみたいなもの、その毛を立てる作業を「今」が進む流れと仮定するなら、私はただ数十年分をセンチかに換算したシミでしかない 毛を立てる作業を 受動的に 感じるから命があるように錯覚しているけど、シミの境界線つまり始まりと終わりには全く知ることは無い

今いきなり地球が丸ごと滅んだとしても私はその終わりを知覚することはないから、決して怯えなくてもいいのにどうして死が怖いんだろうなあ 私が知っている他のシミが私より先に伸びていくのが怖いのかなあ 意味わかんねえし感覚も意識も思考も死も時間も何もかもが怖えよ

つうか何もかもに怯えて薬飲んで不安殺して私は暮らしてんにそれを必要としないで立派に生きてる人がこええよ 何食って何考えて生きてんの

あーーーこんなん考えなくてもみんな生きてけるんだろうな。

病気、という単語が脳裏に浮かんだ。いわゆる精神疾患、パニック障害やら不安障害やらなにやらの漢字が明朝体で踊った。

そもそも病気とは一体なんなのか

物心ついた時からぐるぐると考え事をしていた私には、「考えすぎ」に紐づく不安をどうしても病気とは捉えられない。
これが元々いわゆる「正常な」人で、いきなり考えすぎるようになったらそれは異常だからその人は病気を知覚できるだろう。

でも私の正常はこれだ。


病気の定義とはいわゆる人類という母集団中5パーセント未満の異常を指すみたいなことがWikipediaに書いてあった。さっき見たけどあんま数値に自信ない。15%かも。でもちもっと多いよなそれ。
ただこのパーセンテージは慣例的に決まってるだけで、科学的根拠がある訳では無いらしい。糖尿病とかだと多分めちゃめちゃな数の人が患ってるし。肥満とかさ。
逆に高身長とかめっちゃ目がいいとかも病気になりかねない。
割と問題のある定義。

じゃあ病気ってなにって考えたらマジで意味わかんない。

昨今の潮流の通り「個人主義」にのっかればわたしのこれは個性に値する。けど病院に行けば薬が処方される。
医療の定義は病を治すことなのに、その病にきっちりとした定義がないことにびっくりすると同時にじっとりとした恐怖を覚えた。(全身麻酔の仕組みが未だわかってない、というのをしったときに似ている)

訳分からんもんで一大産業になってんのこええよ。

とか書きつつも、コロナというものがいわゆる疫病であると私は知っているし、なんやかんやいいつつ病という概念を理解しているのかもしれない。


結局人間はある程度の同一性を担保に社会を築いているから、個人主義にはいずれ限界が来ると思う。
初等教育は同一性を教える場だし。たとえ身につかなくても「常識」という概念を植え付けろ。そのうえでそれを守るかは自由だ、的なね。

私は、言葉を捏ね回して要らぬ思考を積み上げてるだけに見えるかもしれない。けどこれは脳みそが焼ききれるほど悩まされる数多の不安を言語化する作業で、むしろ曖昧な不安が先にある。言葉の枠組みの中で語るためにぐちゃぐちゃと訳の分からぬ単語を繋ぎ合わせてる。
思考に言葉が追いついてない。

とまで書いたけど、けっきょく思考は言葉に定義されるのだ。
言語にない思考はできない。
じゃあなんでこんなこと書いたのだろう。
思考できるなら知っているはずの言葉なのに、どうにも浮かんでこない。

死にたくね〜

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