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花のかげ~第4章 瓦解(7)

七.まだ早い

 十一月八日の日曜日。この日はどうにも母の調子がよくなかった。朝はなかなか目覚めず、朝食は全員で一緒にとることができなかった。
 朝はパンであることがほとんどなのだが、遅く起きた母はパンはあまり食べたくないというので、妻が雑炊を作ってくれた。車いすに座ってリビングに移動してはいたものの、体が左に傾いてしまうために自分で箸やレンゲを使って食べることは困難になっていた。そのため、私がレンゲをつかって食べさせてやることにしたのだが、その雑炊を母は「おいしい、おいしい」と言って食べていた。
 食事はこぼさないように注意することは必要だったものの、それまで口に運んでやるようなことは一度もしたことがなかった。そのため、どうしてもこれには悲観的にならざるをえなかった。
「再発しているかもしれない」
という思いは私も妻も同じだった。そもそも立ち上がり方を忘れた時点でその思いはあった。だが再発というのも今一つ確証がもてない。と言うのも、嫌がりこそすれ抗がん剤はほぼ定期的にやっていたわけだし、アバスチンもやっていた。やらなかったのはオプチューンだけである。
 とはいえ、抗がん剤をやっていたとしても再発はありうる。そもそも再発は免れられないわけであるから、積極的な治療をしていたからと言って大丈夫ということはない。
 結局その日は午後からベッドで横になってしまい、横になりながら「わけがわからない……わけがわからない……」とブツブツと繰り返しているうちに眠ってしまった。
 七時過ぎまで眠っていた母だったが、一人で食事をとれない状態である以上、まずは私たち三人で食事を済ませ、それから母に食べさせることにした。その日の夕食はおでんだった。
 私たちが食事を済ませた後母をリビングに連れてきて食べさせることにしたのだが、母の食べ方は少し異様だった。おなかが空いていたことは確かなのだろうが、大きく目を見開いて身を乗り出すようにして私が箸でとって近づけるおでんに食いつくという感じだったのだ。「おいしい」と言って食べてくれるのはいいのだが、飲み込むのもそこそこにまた次のものを食べようとする。「誤嚥」という二文字が頭をよぎった。このままだと誤嚥してしまいかねない。
「飲み込んでから次だよ」
と言うのだが、飲み込むのもそこそこにまた食べようとする。次第に口の中がいっぱいになってくる。その様子が異様なのである。とにかく落ち着かせて少しずつ食べさせようと試みるわけだが、のどに詰まらせないようにするのが精いっぱいで、その時に十分な量を食べさせられたかどうかは自信がない。ただ、「もういいです」といって食べ終わった母も、表情にはふてくされたような様子はなく、本当にもうそれ以上は食べたくないという感じではあった。
 なんとか食事を済ませた後、ずっと寝ていたこともあるので母はしばらくリビングにいたいと言うので、車いすに座らせたまま息子が見ているテレビを見ていた。その時私はやり残した仕事があったので二階に行っていたので詳細はわからないのだが、ちょっとしたトラブルがあった。
 その日は日曜日なので息子が大好きなテレビ番組があった。そこに出ているタレントの一人のことを母は非常に嫌っており、息子が笑いながらそれを見ているのをどうもイライラしながら見ていたようだ。
 物音がしたので私が下に降りていくと、妻が階段のところにいた。どうしたのかと聞くと、どうやらイライラが募って薬を飲んだ際に残っていたマグカップの水をぶちまけたらしい。母のところに行って「どうした?」と言うと、例によってどろんとした目でジロリとこちらを見て、
「なんでもないよ、ちょっとコップの水をこぼしただけだよ」
と言って黙ってしまった。
 どうやらこれは認知症にはよくあることらしい。自分に注意を向けたい、放っておかれたくなくて気を引くためにやることがあるのだそうだ。母にもそれが出たということだろうか。息子には二階にあるテレビで見せればよかったと思ったのだが、息子も受験勉強を一人部屋でやっていて、テレビくらいみんなで見たいという思いがあっただろうからリビングで見せていたわけである。息子も一人っ子であるせいか、極度の寂しがりなのである。いつも母のことにかまけていて息子に手が回らないでいたことは否めないわけで、一人二階でテレビを見せるのも不憫に思えた。どうにもバランスがとりづらくなってきていた。
 母のイライラは、一緒につれてきていたインコに向けられることもあった。「あおちゃん」という名のインコを母はことのほかかわいがっていたのだが、この時期になると籠の外に出たがって鳴くインコに対し、
「うるさい!」
と言ってクッションを投げつけたことがある。母の腕力ではクッションは籠までは到底届かないわけだが、とうとうインコにまでそういう態度をとるようになってきたかと思わざるをえなかった。とにかく母の状態はいろいろなところで変化していたのである。
 九日の日、朝は息子に手伝ってもらい、車いすごと母を外に運び出した。玄関の床に傷がついたが、そんなことは気にしていられない。そしてなんとか車いすから車に乗せると、息子は学校へ、そして私と妻は病院へとそれぞれ向かうことになった。
 病院ではいつもの定期受診と言う感じだったのだが、時折通る看護師を見ては、
「ほら、あれ、私の友達の娘」
と私に言った。まず間違いなくそれは違う人物なのであるが、母の目にはそうとしか映らなかったようだ。否定するのもなんなので、「あぁ、そうなの」と言って私は受け流すしかなかった。
 そして私たちの番が回ってきた。今川医師のいる診察室へ入ると、母の目には今川医師が映っていなかった。
「せんせー、だぁれだ」
と言っても、母には声しか聞こえていないわけである。右側にいる私の方を向いているわけで、今川医師はそれを見て少し怪訝な顔をして、
「あぁ、見えてないね」
と即座に言った。
「ほら、今川先生だよ」
と言って母の顔をすこし強引に向けてやると、母はやっと今川医師に気づいた。
「せんせー、だぁれだ」
と言う問いに、
「イマガワせんせー」
と母は答えた。そこはわかっているようであった。
「どうですか、状態は」
と私に今川医師は聞いてきた。
「あんまり良くないと思います」
と私が言うと、
「ハイ、万歳して」
と今川医師が指示を出した。母はすぐに反応して万歳した。
右腕しか上がらない。左腕はピクリともしなかった。
「歩けますか」
と言う問いに、もう歩けない、左足はほとんど動かず、立ち上がり方も忘れてしまったようだと言うと、
「まだ早い……う~ん、今までよく家でみていましたね」
と今川医師は言った。わずか二週間での変化であるが、今川医師にはそう思えたのだろう。
そして今川医師は私の方を向いて、
「MIRを撮らせてもらっていいですか」
と少し険しい表情で聞いてきた。もちろん拒む理由など何もない。むしろこちらからお願いしたいくらいだった。今川医師が手際よく連絡をとり、私たちはMRIを撮影する場所へと移動した。
 MRIの撮影も、そしてそのあとにあった採血やCTも、とにかく大変だった。移動させるたびに母は「痛い、痛い!」」といって職員たちを困らせた。ただこれはうぬぼれかもしれないが、私が抱え上げる時には少しトーンダウンしていたような気もする。MRI撮影の時は横に寝るわけだが、そこから車いすに移すのは本当に苦労したわけだけれども、CTと撮る時に関しては、私がすんなりと車いすに移動させるので、職員から、
「やっぱり家族だと違うんですね」
と言われてしまったのだから、ひょっとすると母にも甘えていたところがあったのかもしれない。
 MIRの撮影にはかなりの時間を要したが、撮影した後に診察室へ戻った私たちを前にして今川医師は不思議そうな顔をした。
「脳は腫れているんですが、明らかな再発の兆候は見られないんですよ」
というのである。私は最初の手術をするきっかけとなったMIRの映像と同じようにはっきりとした影が映っているものだと思っていたのだが、PCの画面に出ているMIRの画像にはそれらしいものはまったく見られなかった。そこにあるのは、右側頭葉の中心部分にうっすら白い筋のようなものが見えるだけであった。もっとも二月に撮影したものでもそれがあったわけで、そこから四月にははっきりとした黒い影となって現れたわけだから、そこにまた出現する可能性もあるのかもしれない。
「入院しましょう」
と今川医師ははっきりと言った。
「アバスチンはやらせてもらっていいですか」
と私に向かって言った。そして癲癇の薬も入れてみると言う。脳を手術した場合、どうしても脳を傷つけることになるため、脳の中で発生する電気信号がエラーを起こし、癲癇の症状を見せることはよくあるのだそうだ。もちろんそこはお任せするしかないということで、急遽母の入院が決まったのである。
 正直なことを言えば、ここで今川医師が「入院」と言わなかったらどうしようかと思っていた。母の状態は素人の私からみても良くない方向へと明らかに向かっていたし、そのまま帰宅してもその後をどうすればいいかまったくわからないでいたからだ。
 そこからはコロナの関係もあるので胸のCTを撮り、採血をし、入院の準備を進めていった。病室が空いていないこともあり、まずはHCUに入り、病室が空き次第移るということになったのである。

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