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花のかげ~第4章 瓦解(4)

四.治療をやめたい

 抗がん剤投与のための入院は、母に相当な精神的ダメージを与えたようだった。そのせいか母は何かにつけ「徘徊した」と言っていたわけである。九月の下旬から母はその後の治療がどうなるのかを再三にわたって私に確認するようになった。覚えられないわけだからそのたびに一から説明しなければならない。それ自体は全然かまわなかった。オプチューンの時もそうだったのだが、これは病気をした人特有のものであることは私にも十分に理解ができる。聞くたびに自分の不安を取り除いてくれることを期待しているふしもあるわけだが、いつも同じ回答を聞くたびに母は意気消沈した。
 とにかく抗がん剤の投与はまだまだ続くわけだ。加えてアバスチンの投与もある。アバスチンはまだ半年程度のことではあったものの、抗がん剤だけはどうにもならない。大腸がんを患った妻ですら、抗がん剤はずっと飲み続けたわけである。しかも母の場合は錠剤を使っての自宅投与は難しいのである。そうなれば月に一度の入院が待っている。母からすればまた徘徊してしまうのではないかという恐怖と、自分が捨てられるのではないかという二重の恐怖があるわけだ。
 入院した際に問題となるのは、とにかく何もすることが無いということである。カーテンで仕切られた狭い空間の中で何もすることが無いと言うのは誰にとっても苦痛でしかないだろう。それが認知症を患っている人であればなおのことそうであることは想像に難くない。テレビを見ようにも操作方法がわからない。病院はテレビカードを使って見るシステムなのだが、テレビカードを買ってあげても母は使い方がわからずに何もしないままにカードを消費してしまっていたようだ。妻が持たせた『趣味の園芸』の雑誌も、このころになるともうほとんど見ていなかった。
 また、四月の手術の際に、携帯音楽プレーヤーを母は紛失している。そのために放射線治療の時は手持無沙汰で退屈したわけだし、抗がん剤治療の時もそうだったわけだ。以前に差し入れた携帯ラジオも、操作はスイッチのオンとオフしかないシンプルなものであるにもかかわらず「使い方がわからない」と言っては使っていなかったし、差し入れて早々にアンテナを折ってしまっていたのでFMは受信できなくなってしまっていた。
 二度目の入院をどうやって乗り切るべきなのか、それを私も妻も考えるようになった。もちろん二度目もあれば三度目以降もある。なんとか不安を取り除けるような方法を探す必要がある。一番の方法はなんといっても見舞いに行けることなのだが、それは社会的状況が許さないことである。
 それならば、と私はリサイクルショップを訪れてみた。私の予想は的中し、手ごろな携帯音楽プレーヤーが安値で売っていたのである。しかも母が紛失したものと色違いのものである。使い方がわからなくなっているかもしれないが、それでもすがるような思いで私はそれを購入し、持ち帰っては母の好きなクラシックや私の持っていて母が良い曲だと言ったものをその中に移した。
 これは母にとって、ほんの一時的ではあったもののかなりの効果があった。イヤホンを耳に入れるのには少し苦労したが、母は家にいるときはずいぶんとそれで音楽を聴いた。音楽を聴きながらうたた寝をすることも多かった。だがそれは安らかな気持ちの中でのうたた寝であるから、歓迎すべきうたた寝であろう。これを次の入院には持たせることにした。
 とはいえ、入院の不安、治療の不安が消えることはない。毎日のように母は入院や治療のことで話をしてきた。
「(治療が)いやだなぁ」
ということも増えた。確かに病気と闘うには強い精神力が要求されることもある。加えて認知症である。端から見ていて、このまま治療を続けるのは酷であることは明らかであった。
「治療って、やめたらどうなるんだろね」
と母が言った時には、
「再発は早まるんじゃないかな」
としか言えなかった。再発は免れられない。それは神経膠腫(グリオーマ)、そして膠芽腫(グリオブラストーマ)にとってはほぼ定められたも同然のものである。そこをごまかすわけにはいかない。ただ母は、
「治療って続けなくちゃいけないものなのかね」
ということも増えてきた。気持ちが萎えてきていることは間違いなかった。
 ここから先は異論も多いかもしれないが、あえて記しておきたい。治療を続けるかどうかは患者自身が決めていいことなのだと私は考えているのである。もちろん後ろ向きの意味で言っているわけではない。近年はQOLが第一に考えられている。今川医師も「歩いて入院しに来た人を寝たきりにして帰すことはできない」と言っていたように、がんを全部取り切って寝たきりになってQOLが地に落ちるくらいなら、がんを残す方を選択するわけだ。それが今の医療の考え方である。それについては私も完全ではないにせよ賛同できるものである。治療に関しても体へのダメージが大きいものであれば、その治療をやめるという選択肢もある。だが、
「治療を続けるかどうかをあんたたちが決めてくれない?」
という母の言葉に対して私は、
「それはできない。決めるのであれば、それはお母さん自身でなくちゃ。私たちは十字架を背負うことはできない」
といって拒否するしかなかった。
 抗がん剤投与のための二度目の入院は十月六日からだった。今度は大部屋ではなく、ナースステーションの横の部屋となった。そこはいろいろと難しい患者を寝かせておくための部屋で、差額は取られないものの二人部屋であった。看護師の誰かがいつも見ていてくれていて、カーテンも完全に囲わずにもう一人の入院患者と区切るだけのものになっていた。これがうまくいってくれればと祈るような思いだった。携帯音楽プレーヤーを枕元に置き、充電のケーブルには大きな文字でタグをつけ、少しでも音楽を聴いてくれればと思った。
 時を同じくして、妻が病院の相談窓口に相談に行っている。妻も手詰まり感があったのに加え、精神的に疲弊していたのだろう。そこで秋本さんと話したことにより妻はずいぶんと気持ちが軽くなったようだ。この秋本さん、かつては脳外科に所属していたこともあるそうで、脳腫瘍の手術をした患者をたくさんみてきていたことに加え、普段は母が入院していた病棟にいることもあって、母の様子を時々見てくれていた。秋本さん自身、妻の様子を見て
「お母さまのことはもちろんなのですが、(あなたは)大丈夫ですか?」
と妻を気遣ったと言う。
 この秋本さんの指摘は妻の心をずいぶんと軽くしてくれた。そこから話が始められるからだ。脳外科にいたことがある秋本さんの指摘は的確で、私たちの疑問についてもいくつかの方向性を示してくれることになった。
「通常、脳の腫れというものは、手術をしてからだいたい一か月くらいで引いてくるものなんですよ。放射線治療をすれば当然脳も腫れるわけなんですが、それにしても放射線が終わってからもう数か月たちますよね。なのにまだ『脳が腫れている』というのはちょっと考えにくいことでもあるんです」
というのが彼女の指摘である。もちろん彼女は医者ではない。医者ではないわけだから、医者と看護師のどちらを信用しなければならないかと言えばそれは前者になってしまうだろう。だがこの場合は秋本さんと今川医師の見解が相違しているというよりは、手術や放射線の後遺症として腫れが続いているのではない可能性の方に私の関心を向かわせることになった。
「今後の治療をどうするかに関しては、今がギリギリのところかもしれません」
という秋本さんの言葉は、母の認知症が今後加速していくことを示唆していた。彼女は入院中の母の様子を見に行ってくれていたこともあって、母の認知症が進行していることを如実に感じ取っていたのである。
「外科医は、とにかくあらゆる治療を投入してきます。抗がん剤にしても、がんの治療ではあっても、体に負担がかかることは免れられません。今後どうしていきたいか、ご家族で話し合うならば今しかないと思いますよ」
という意見によって、私たちは母とじっくり話をする機会が必要だろうと痛切に感じたのだった。もちろんそれは正常な話し合いにならなければならないわけであるけれども……。

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