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花のかげ~おわりに

 母の発病から母が亡くなった後までを区切ると、発病から手術までが第一楽章、術後から再発と思われるところまでを第二楽章、そして亡くなるまでを第三楽章だとすると、今は第四楽章の真っただ中ということになるだろうか。この第四楽章がいつまで続くのかは私にもわからないのだが、母が亡くなって一時期激しい虚脱感に苛まれ、そこから徐々に日常を取り戻しつつある中で、息子の受験も終わり、そろそろこの一年というものを振り返って第四楽章を終わりにしてもいいかという思いから、本稿をまとめてみようという気持ちになった。
 誰に読まれるかはわからない。読んだ人がどう思うかもわからない。ただ自分の中でこの介護がどうだったのか、どのような経緯をたどったのかを記録することは何かしらの意味があるような気がしている。
 母の病気は神経膠腫(グリオーマ)に分類される「膠芽腫(グリオブラストーマ)」であった。右側頭葉にできた直径三・五センチほどの腫瘍は、手術で八割弱程度を切除し、あとは化学療法で治療していくという形をとった。だが術後の認知症は加速度的に進行し、介護している私と妻は身体的にも、精神的にも大きな負担を強いられた。
 経験してみて思うことは非常に月並みだが、介護に正解はないということである。しかし身内ですら介護に直接的に関わっていなければ、理解を求めるというのはなかなかに難しいことも痛感している。それでも昔に比べれば介護保険をはじめとしてさまざまなサービスが利用可能になり、私と妻の介護に関しては、介護全般の中ではもしかすると「楽」な部類だったのかもしれない。
 では介護を「やり切った」という思いがあるのかと問われれば、それは今は考えたくないというのが本音である。デイサービス「ひまわりの郷」の所長が母に「子どもは覚悟を決めて親の介護をしている」と母に対して言ったことがあるわけだが、まさにそれが一番的を得ているような気がする。誰の助けも借りないという強い思いを持っていたわけでは決してないのだが、息子として親をみるというのは半端な思いでは済まされない。最初は病気が何なのかから始まったわけだが、手術をするという段階から私にはもうその覚悟はできていた。もちろんうまくいかないことも最初は多かったし、手探り状態の中で至らないことを挙げたらきりがない。
 ただこのコロナ禍にあって、母がコロナに感染して亡くなるということだけはあってはならないと思っていた。母をコロナで死なせてしまっては自分のところに連れてきた意味がまったく無くなってしまうからだ。それに加え、とにかく子どもや孫と暮らすことの幸せをかみしめてもらいたいという思いから毎日必死であったことは間違いない。昼に妻と二人で食事していても話す話題は母のことばかりだった。「食事の時くらいちょっとその話題はやめようか」と苦笑いしながら別の話題に移っても、結局はすぐに母の話題に戻ってしまうような有様だった。
 だから、姉から「こちらの方(つまり姉に対して)にも不満があるでしょうし」とメールで言われたとき、「はて、不満って?」と思ってしまったのである。はっきり言えば、姉の存在など介護を進めていく上でまったく頭には浮かんでいなかったのだ。それは姉を無視してということでは決してなく、とにかく自分たちで何とかしよう、息子のところに来てよかったと思ってもらいたいという気持ちが強かったためで、自分たちばかりが大変な思いをしている、という思いなど微塵もなかったのである。
 もちろんこうしたやり方には異論もあるだろう。ただ母の情報を逐一身内に流したところで、コロナ禍にあって東京にいる私たちのところに応援に来られるはずもないし、むしろ来られたとしても私たちの負担が増えるだけの可能性もありうるわけだ。だから私たちは自分たちにできることを淡々と(粛々と)進めていくことしか頭になかった。加えて、自分たちの都合で見舞いに来られたとしても、私も妻も仕事を持っているわけなので、そうした中でせっかくの善意も踏みにじってしまいかねないという危惧すらある。だが、私たちの介護はブラックボックスの中でやっているように身内からは見えたことだろう。
 だからなのか、母が亡くなってから、やはり親戚との軋轢というか解釈の齟齬はいろいろあった。一つ一つ上げたらきりがないので、本稿でそれをいちいち記すのはためらわれた。私たちの世代を境目にして、価値観やものごとのとらえ方は大きく変化してきている部分もあって、そもそも接点を見出すことが無理なこともたくさんあるからである。
 葬儀が終わってからは、妻と二人で静かに母を思い出すことにしている。これは今後もしばらく続きそうで、結局第四楽章に終わりはやってこないのかもしれないと感じてもいる。
 最後に、母の治療、介護にあたっては、大学病院と療養型病院の医師、看護師、ヘルパーの方々、相談窓口の方々、そしてデイサービスの方々、ケアマネージャー、訪問看護のヘルパーの方々など、お世話になった人たちがたくさんいることに触れておきたい。ケアマネージャーが母の介護に関わる人たちのことを「支援者」と呼んでいたが、まさに母に関わってくれたすべての人たちが「支援者」であった。この支援者のみなさん無くしては母の介護はできなかったということだけは断言できる。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
 そして、私の最大の支援者は妻であった。普段から二人でよく話をしながら子育ても進めているわけだが、母の介護にあたって、二人の間に見解の相違が生じたことは一度もなかった。この介護にあたって誰よりも私の力になり、味方になってくれたのは妻であったと確信している。妻には心から感謝している。

                           二〇二一年 春

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