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花のかげ~第2章 動き出す(2)

二.十年生きられる?

 四月二十五日、土曜日、本来なら私は仕事なのだが、週三日出勤になっていたために病院へ向かうことができた。午前十一時が医師との面談となっていた。車いすに乗せられてやってきた母は、車いすなど乗りたくないと言ったもののそれは許してもらえないのだと不満を言った。
 病棟は五階だったが診察室は一階である。エレベーターで降りていくと少し待たされることになった。こうやって母が脳腫瘍という病気を患うと、脳神経外科の外来で待つ人たちにも何らかの疾患があるのだろうと思い、なんとも複雑な気持ちになる。だいたいは一人で診察室に入っていくのではなく、家族が付き添っている。若い人もいれば年配の人もいる。特に今川医師のところに入っていく人たちは、今川医師の専門が悪性腫瘍であることから考えても母と同じようなものを持っているのだろうかとどうしても考えずにはいられなかった。
 私たちみんながかかっているこの大学病院は、「外待合室」と「中待合室」というものに分かれている。外待合室にいる人はまだ順番がまわってくるのに時間がかかる人たちで、受付で呼ばれるのを待っている。その時点ではどの医師に診てもらう人なのかはわからないわけだが、中待合室にいる人はもうすぐ医師から呼ばれる人たちであるわけだから、自分がかかる医師の部屋の前にいるので、今川医師のところにいる人は必然的に悪性腫瘍の可能性が高いということになる。
 外待合室ではほとんど待つことはなかったのだが、中待合室に入ってから少し待たされることになった。
 母の話は同じことの繰り返しだった。手術は怖いが、手術を受けないといけないのだろう、手術をしないとすぐに死んでしまうのだろう、そう考えると手術を受けないわけにはいかない、その繰り返しである。私の息子はちょうど中学三年生で、母にとっての孫である私の息子が高校生になるのを楽しみにしていたのである。そのことを話しているうちに、母の目には涙が浮かんできた。
「高校生になった姿が見たいんだ」
そういうと母はしばらく泣いた。ちょうどそのころ、私の姉にも初孫が誕生しようとしていたところだったため、母にとってのひ孫もまた楽しみの一つだった。それもまた、手術を受けようという動機の一つになっていたことは間違いなかったが、私に気遣ってなのかどうかは知らないがその時はその言葉はなかなか出てこなかったために、こちらから促したほどである。
 そうこうするうちに今川医師が出てきて中に入るように言われた。母の車いすを押して中に入ると、今川医師は、
「せんせーの名前はなぁんだ」
と聞いてきた。認知症が疑われる、あるいは認知症の患者に対するいわゆるお約束の質問だろう。
「イマガワせんせー」
と母は笑いながら答えた。その後矢継ぎ早にその日の日付やアメリカ大統領の名前を聞かれたが、母の返答は正確だった。
 そこから本題に入るが、やはり今川医師の言うことは変わらなかった。
「病理の最終報告はまだ上がってきていませんが、脳原発の脳腫瘍でほぼ間違いありません」
と言い切った。母はあらかじめ聞いていたとはいえ、息をのんで聞いていた。
「さて、じゃぁここからどうするか、ですね。それほど時間はおけないですよ」
と今川医師が言ったところで、母は間髪入れずに、
「手術をしてください。手術を受けたいです」
とはっきりと言った。そこにためらいはなかった。私に同意を求めるそぶりもなくまっすぐ今川医師を見て言ったため、今川医師は「わかりました」と言うしかないように見えた。だが、
「手術をするとあと十年は生きられると言われましたし……」
と母が言うと、今川医師は苦笑しながら大きな声で、
「十年生きられる? そんなことは言ってない。手術をしたら一年一年見ていくとは言いましたけどね」
と言うので、母は当惑した後にかなり落胆したようだった。しかしそれでも、
「手術してください」
と言うので、今川医師は手術室の空き状況を調べ始め、早ければ四月二十八日、遅ければ連休明けの五月十三日になると告げた。正直なところ、私は手術すべきかどうかということにおいては、手術が六割、手術しないで治療するが四割という感じだった。だがこれは患者本人の意志が最も尊重される部分でもある。そのことはすでに母には言っていたし、母がはっきりと「手術したい」と言った以上、そこに私が口をはさむ余地はなかった。
神経膠腫(膠芽腫)は時間との闘いでもあるようで、それほど待てないことからなるべく四月二十八日にやる方向で調整すると言った。つまり三日後である。運悪く五月の連休に入ろうとしている時でもあったので、連休中は手術は難しいのであろう。時間との闘いとあらためて言われると、つくづく妻がMRIの撮影を早めてくれたことが良いサイクルを作っていると思わざるを得ない。あと三日後ともなればいささか心の準備に要する時間がなさすぎるわけだが、そんなことは言っていられない。いずれにしても、決定したら連絡が入ることになった。
 診察室を出ると、私は母の車いすを押しながらエレベーターへと向かった。
「この病院は自分が今何階にいるかわかんなくなるよね」
と母がしみじみと言った。確かにその病院は駐車場から病院へ入ると二階になる。その二階が初診の手続きをした総合受付があるところで、脳神経外科が一つ下りた一階になる。一階から三階までは中央に吹き抜けがあり、一階では時々イベントが行われることもある。私が以前入院した時には、夕方にそこで高校生の吹奏楽部が演奏をしたこともあった。
 私は母が五階の病棟へと連れていくと、ちょうど昼食が運ばれてきていた。その時母は、
「どうも左の指がね、ちょっと動きづらいんだよ」
と言った。十六年ほど前に脳梗塞を患った時も、母は左手の握力をかなり失っている。それはリハビリでなんとか回復したところもあったのだが、また左に機能障害が出始めているようだった。これが手術となるとどうなるのか心配になった。また、
「ごはんがね、美味しくなくてさぁ」
としみじみ言っていたが、病院食に期待する方がなかなか難しいものだ。とはいえ、その病院は私も一か月ほど入院していたことがあるが、病院食にしてはなかなか良いほうだと私は思っている。週に二回は「セレクト食」というものもあり、前日に提示された二つの昼食のうち好きな方を申し込むことができることもあった。ただ、その時はコロナウィルスの関係もあって病院に限らずいろいろなところで材料調達すら難儀していることを聞いていたため、病院としてもなかなか思うようにならないところもあったのだろう。それがその病院の食事が母の口に合わない要因になっている可能性はあった。
 母が昼食を食べ終えるのを見届けてから私は病院を後にした。

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