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花のかげ~第4章 瓦解(8)

八.転 院

 母が入院すると同時に私たちは次の手を考えなければならない必要性に迫られていた。もし大学病院で打つ手がないと言うことになった場合、残された道は母の療養をどこでするかということになる。ここまでくると、家で介護することは現実的ではないと思われた。
 家で介護するということと、療養型の病院や施設に入れることについては個人の見解が分かれるところだろう。家で最期を看取るまで介護することを選択しても、施設や病院に入れることを選択しても、どちらも間違いではないと私は考える。この選択は介護している人にゆだねられるものではないだろうか。少し強い言い方をすれば、外野がとやかく言うことではない。
 そもそも、母は病気を持っている。何も病気がなく、老衰ということであればまた違った選択をしたかもしれない。だが病気を持っている以上、自宅でみるということにはまったくと言っていいほど自信がなかった。
 私の同僚の母親が八月に亡くなっているのだが、死因は熱中症だったそうだ。そのことを同僚は非常に悔いていた。何かもっとできたのではないか、避けられるための手段があったのではないか、と自分を責めていた。自宅介護の現実を知らされたような気がした。
 私の場合にしても、自宅でみるとなるとどうしてもその問題と向き合わなければならない。だが現実的には病気を持った母を家でみるのは不可能だと言わざるをえなかった。今川医師ですら「よく今まで……」と言っていたくらいだから、本当ならもっと早く病院なり施設なりへと預けてしまうことが多いのだろう。
 とはいえ、自分の中で母を自宅でみることと病院または施設に入れることのどちらが良かったのか、はっきりとした答えは出ていない。身内、あるいは部外者の一部には前者が正解なのだろうが、私自身はどちらがよかったのか、百パーセントの自信をもって言える日はおそらく永遠にやってくることはないだろうと思っている。
 そして私たちは入院前検査を終わらせてHCUに入った母を後に残し、すぐには帰宅せずに病院の相談窓口を訪れた。秋本さんに会うためである。
 批判はされるかもしれないが、常に一手先を読んで行動しておかなければならないのは、コロナの感染拡大時に手術、放射線治療とやってきた中で痛切に感じたことである。ここまでの時点で、今川医師からは、療養型病院に移す場合であれば、という前提でいくつかの病院を紹介されてはいる。だがここはそれに乗っかるのではなく、よく考える必要があると思われた。

 こうした次の手を考えるというのは、まるで母を諦めているようにとられるかもしれない。だがそれは違う。こればかりは介護している人間にしか共有できないことだろうし、介護に関わる人間でも意見が分かれるかもしれない。それぞれの家庭の状況によって介護の仕方は一つ一つが異なるのだ。私の場合、母の病気と認知症の二つを前にした時、自分の生活と併せて考え、現実的に家ですべてをみることは不可能だという結論はこれまでの中で漠然としたものながら持っていたのである。
 秋本さんからはソーシャルワーカーである浅野さんという方を紹介された。人当たりのいい朗らかな人だった。そして浅野さんと話す中でいくつかの病院を紹介された。だがどうにも古くさい感じがする。写真ではそうは見えないものの、予想される古さは典型的な老人が入る病院を想起させるに十分だった。この時点では老人健康保健施設のことは頭になかった。
 相談した時に大学病院からは紹介されなかったが、私たちが知る病院の中で一つ候補があった。桂田ふくやま病院というところである。ここは私の同僚がお母さんの最期を看取った病院だということを聞いていた。まだ新しい病院で、ちょうど場所は私もよくわかっているところだった。
 聞けば老人医療としては市内のターミナル病院の指定を受けているところらしく、老人医療の中心的な役割を果たしているということである。それならばなんとかなるのではないかという気がしていたことと、コロナで面会謝絶の病院がほとんどの中で何かしらの手段があるのではないかという期待もあった。
「ふくやま病院とは直接のやり取りはないんですが、連絡をとってみますね」
と浅野さんは言ってくれた。
 すべての相談が終わって病院を離れると、辺りはすっかり暗くなっていた。長い病院での一日が終わった。私も妻も体にへばりつくような疲労感を覚えながら帰路についた。
 そして数日後、浅野さんから連絡があり、ふくやま病院と連絡がとれたということを伝えられた。まずはこちらで見学に行かなければならないようで、十七日、私も休みだったこともあり、妻と二人でふくやま病院に行くことにした。それは浅野さんからの指示でもあり、まずは行ってみて見学をし、その上でどうするかを決めてほしいということであった。
 大学病院ほど近くはないが、それでもあまり遠くないところにふくやま病院はある。加えて、私が独身の頃と、結婚してすぐに住んだところに非常に近かったため、なじみのある場所である。街並みは新興住宅街にあり、まだまだ開発・発展の余地を残しているところだった。緑をたくさん残しているところを車で走り、突然視界に現れるチャコールグレーとオレンジのカラーという病院らしからぬ色合いの建物を目にしたとき、私たちには言いようのない感情がわいてきた。
 しかし外装とはうって変わって病院の中はオフホワイトで統一されていた。その病院では外来はやっておらず、一階が老人のリハビリ施設となっていて、そことは別のところが受付になっていた。浅野さんから連絡を受けていた白衣姿の女性が応対してくれた。
 一通り病院の説明を受けた後、転院するならば入るであろう病棟を案内してもらった。入院患者のほとんどが老人であるため、徘徊して外に出て行ってしまうのを防ぐために、各病棟に入る場合は普通の自動ドアのようだったが出る時は看護師が持っているカードを使わないと扉があかないようになっていた。
 新しい病院であることから、入院患者のほとんどが老人であるような病院にある特有の臭いというものはほとんど感じられなかった。もっともマスクをしていたせいもあってあまり感じなかったのかもしれない。
 病棟は一般病棟と緩和ケア病棟に分かれていて、緩和ケア病棟は末期がん患者が入るところだと説明を受けた。私たちが見学したのは一般病棟である。病棟の壁には絵が掛けられていたが、病院にある絵としては色が濃いものが多く、やや不似合いな印象を受けた。
 大学病院から母の状態に関する連絡は受けていなかったが、芳しくないであろうことは容易に想像ができた。大学病院はどこも同じなのかもしれないが、回復の見込みがある人と、研究の対象になる人以外は長く入院できないものだということは以前に聞いたことがある。そうなるといつまでも大学病院に入れておくことはできない。順序として正しいのかどうか自信はなかったが、私は母をみなみの病院に転院させることを決断した。
 ふくやま病院に転院の申し込みをしたが、まずは大学病院と連絡をとり、その上で受け入れ可能かどうか、そして転院すべきタイミングの判断をすることになると言われた。大学病院が母の現状をどう判断するかによっても転院のタイミングは変わってくるのである。
 入院を待っている患者で女性はいなかったこともあり、母が候補者の一位ということになったので、それほど待つことはないだろうということだった。しかし回答には数日はかかるだろうことが予想されたので、大学病院から母が退院しなければならなくなった後のことをいろいろ考えなければならなかった。あの状態でどうやって介護しながらふくやま病院が空くのを待つべきなのか、それが問題だった。
 だが予想に反してふくやま病院からの回答は即日だった。その日の夕方には、受け入れ可能だという知らせを受け、それが十九日だと言う。仕事は休まなければならないがやむをえない。介護タクシーを使って病院を移動することになるため、私と妻は急遽二日後に迫った転院の準備を始めなければならなかった。


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