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花のかげ~終章(7)

七.旅立ちの日に

 三月二十三日。春の陽気そのままにコートを着て歩いているとやや汗ばむほどの気温だった。妻と私はつぼみを膨らませ始めた桜の木の下を歩いていた。この気温が続けばあと一週間で桜は満開になることが予感された。
 思い返せば一年前、コロナウィルスの感染拡大を受け、世の中は花見をするような雰囲気にはなかった。「来年も桜は咲く」と言っては自粛しようという雰囲気が世の中を漂い、枝ぶりのよい桜の木の下に集う人は少なかった。今年もそれは同じなのかもしれなかったが、「自粛疲れ」という言葉にも代表されるように、世間ではコロナウィルスに慣れ始め、今年は昨年とは違った様相を呈しつつあった。
 この日は息子の中学校の卒業式だった。三年前に息子が中学に入学した時は、私は仕事の関係から行くことができなかったが、母はどうしても中学生になった姿を見たいと言って入学式に行っている。それから三年後、その母はもういない。私はなんとか仕事に折り合いをつけ、妻と一緒に卒業式に行くことにした。
 さかのぼること三月二日。その日は息子の第一志望の高校の合格発表だった。息子は中学入学時から一貫してその学校を志望していて、中学に入学した当初は彼の学力などからすれば到底及ばない学校だった。三者面談の席上、息子からその学校が志望校であるということを告げられた時、私は思わず「気は確かか」と言ってしまったほどである。だがそこからの息子は不器用なりに少しずつ努力をした。そんな姿を目にするたびに母はいつも目を細めていたわけで、息子に対して一つ間違えれば過大ともいえる期待感を募らせていた。
 もっとも私も妻も息子の力量から考えて常に焦らないように努めた。かつては中学受験を息子が口にしたこともあったわけだが、時期的にも力量的にもどう考えても無理であることはわかっていたため、私たちは無理に塾に通わせて受験させることはしなかった。そのうち息子の口から中学受験という言葉が出てくることはなくなった。そもそも息子はあまり器用ではない。中学に入ってからも勉強面で多少つまづくことは容易に想像できた。だからこそ私たちは安易に塾に行かせて学力の促成栽培をするようなことは考えなかった。息子に必要なのは、強制的にパッケージ化された教育を押しつけることではないと思ったのである。その代わり、本を読ませるにしてもこちらが作品を強制するのではなく彼が読みたいという本を読ませ、見たいという映画を見せ、時には理解はできないまでも美術館に連れて行って絵を見せ(そんなときの彼の目的は絵を見た後のラーメンだったが……)、少しずつ教養の部分を鍛えることを念頭に置いていた。徐々に彼は勉強をするようになって成績も落とすことなく、実に緩やかに成績を向上させていくことになった。しかしそれでも彼が中学一年の時に口にした志望校に合格するのは正直難しいだろうと考えていた。
 母もそんな状況を私からの話で知っていたし、一年前に私のところに来てからも自分の目で見てはいた。だが母はいつも私の息子の可能性を悲観することはなかった。
「やるときはやるから大丈夫だよね」
と言っては、私の息子を笑顔で励ましていたし、例えどこに進学することになったとしても高校生になった姿を見ることを望んで手術を受けたわけである。
 結局息子の第一志望は最後までぶれることはなかった。周囲の生徒たちが毎日のように塾に通う中、彼は塾には通わずに、自分ひとりで勉強し続けた。そして内申はやや厳しいものがあったものの、受けられないほどでもないところまでに達した。ひょっとするとこれはやりきるのではないかという淡い期待も私たちに生まれてきた。
 母が亡くなった後、棺に息子が込めたメッセージは単純明快だった。第一志望の学校名を書き、
「絶対合格するからね」
と力強い筆致で書かれていたのである。そこまで宣言してダメだったらどんなに落ち込むだろうかとも思ったわけだが、彼なりの強いメッセージをその時は大事にしようと思い、私は何も言わなかった。それは妻も同じだった。
 二月上旬から中旬にかけて滑り止めの学校も二つ受験したが、それにも難なく合格し、彼はよいリズムを刻み始めた。連日深夜まで勉強し、時には私と一緒に数学の問題を解きながら受験の日を迎えた。受験を終えた彼は、
「全然緊張しなかったわ」
と言ってやり切ったような表情を見せていた。しかし倍率は思った以上に高く、本来ならもっと上位の学校を受験しても良いはずの子どもたちまで息子の受験する学校に下げて受験していたため、可能性は五分五分のような感じだった。
 そして迎えた三月二日。インターネットの発表を親の方がはるかに緊張しながら見ることになった。親の方が緊張していたというのは、息子の方には静かな自信があったからなのだろう。そして合格者の番号が並んだ画面を見て、
「あった!」
と息子が声を上げた。結果は合格。親ばかかもしれないが、信じられないことを息子は成し遂げた。正直あり得ない結果と言ってもよいほどだった。内申点が受験の総合点に三割も反映されるため、内申でハンディキャップを背負っている息子がそれを跳ね返すような点数を獲ったということになる。妻はうれし涙に暮れ、私は息子と抱き合って歓声を上げた。私は母の遺影を持ってきて、
「お母さんの孫がやりやがったよ!」
と思わず叫んでしまった。そのくらい、中学入学時にはあり得ない結果だったのである。
 客観的に見れば、息子が合格した高校よりももっと上位の学校もあるわけで、そんな大それたことをしたわけではないのかもしれない。だが私たちにはそれは十分すぎるほどの結果だった。もちろんそれは彼自身にとってもである。
 そんな息子の歓喜に踊る姿を私の母は見られなかった。もし母が生きていたら、きっと私たちと同じくらい喜びに涙したはずだ。そんな母のことを私の息子はこよなく愛した。自分のことを常に信じてくれて、純粋な期待を抱いてくれる祖母のことを彼は慕った。妻の両親が相次いで亡くなった時は息子は小学一年生で、一年半前に私の父が亡くなり、最後に残った自分の祖母に対して息子なりに思うところはあったのだろう。それが最後の最後で棺に納めるメッセージという強い思いとなっていたのかもしれない。
 卒業証書が渡される際、名前が呼ばれた時の彼の返事は心なしか自信に満ちた大きな声になっていた。最後に「巣立ちのことば」が代表生徒によって語られた後、「旅立ちの日に」が全員で歌われた時、私は母のことを思い、落涙を必死にこらえていた。母がこの日をどんなに楽しみにしていただろうかと思うと、それが歌の言葉と旋律に増幅され、私の涙腺を刺激した。後で聞けば妻も同じ思いだったと言う。
 式が終わり、最後に校庭で思い思いに写真を撮ったり別れを惜しんだりした後、私たちは息子とともに帰路についた。春の日差しはどこまでも優しく私たちに降り注いだ。帰り道、私の頭の中では式の中で歌われた「旅立ちの日に」が繰り返し流れ、いつもなら三人で話す言葉が途切れないところなのだが、少しだけ私の言葉は少なくなった。


 旅立ちの日に

白い光りの中に 山なみは萌えて
遥かな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由を駆ける鳥よ ふり返ることもせず
勇気を翼にこめて 希望の風にのり
このひろい大空に 夢をたくして

懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあのとき
心かよったうれしさに 抱き合った日よ
みんなすぎたけれど 思いで強く抱いて
勇気を翼に込めて 希望の風にのり
このひろい大空に 夢をたくして

いま 別れのとき
飛び立とう 未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろい 大空に

いま 別れのとき
飛び立とう 未来信じて
弾む若い力信じて
このひろい
このひろい 大空に


 自宅に向かう途中に橋を渡っているところで私は遠くに目をやった。はるか遠くに見える稜線が空の青さを際立たせてはいたが、冬空の冷たい青とは異なり全体的に色合いは優しかった。暦の上ではとっくに春になっていたとはいえ、その空の青さと降り注ぐ白く暖かな光は長い冬の終わりと春の本格的な到来を声高らかに告げているような気がした。

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