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花のかげ~第4章 瓦解(5)

五.施設に行こうか

 十月の入院は九月の時に比べて問題なく終わったと言ってもいい。退院する日に迎えに行くと、前回とは違ってかなり落ち着いた表情を見せていた。やはりナースステーションの隣の部屋にしてもらってよかったということになる。
 最初に顔を出したときにも母の様子は落ち着いていた。
「退院だね?」
と言ってホッとした様子を見せ、「見棄てられたんじゃないか」という言葉が出てくることはなかった。
 二度目の入院が比較的落ち着いていたのには、携帯音楽プレーヤーが効果を発揮したことに加えてもう一つ、デイサービスでお友達になった東金さんの言葉があったようだ。
「全部看護師さんたちの言うことを聞いていればいいの」
という東金さんの言葉を母は忠実に守ろうと、それだけを考えて一週間を乗り切ったと言っていた。東金さんにはお墓のことに続いて二度助けられたことになる。それでも一週間の入院は母にとってとてつもなく長い時間だっただろうことは容易に想像できた。
 このころはもう自分の足で駐車場まで歩いていくことはまったくできなくなっていたので、車いすを使って移動するしかなかった。
 帰宅すると、いつものように妻が母に紅茶をいれた。帰宅すると紅茶を飲むのがだいたいのパターンになっている。もともと妻は紅茶好きで、お茶が好きな母には毎年誕生日や母の日には紅茶をプレゼントしていたこともあり、母も妻が選ぶ紅茶をいつも楽しみにしていた。私のところに来てからというもの、いつも妻がいれる紅茶を美味しいといって飲むのが常だったので、病院から戻ってくるとたいていはまず紅茶を飲むところから帰宅したことを実感するようになっていた。
 秋本さんが言っていた「話し合い」というのも徐々にやらなくてはいけないという思いはあった。だがそもそも何を話し合えばいいのだろう。治療方針を決めるというのは主治医の領分であって私たちにはない。主治医が提案する治療を受け入れるか受け入れないかしかない。ということは、この場合だと治療を続けるかやめるかという選択しかないわけだ。
 治療をやめるということは、すなわち母の余命がそれだけ縮むということを意味している。治療のたびに大きなストレスを抱える母を見るのは忍びないし、認知症が進行していく母の介護は私たちの生活にも大きな影響を及ぼすことは間違いない。だが治療をやめてほしいという思いにはなれないのは人並みの感情だろう。そのはざまで私もなかなか母に今後どうしたいのかをもちかけることははばかられた。母に考えさせること自体が酷なのであるから。
 そんな私たちの思いを知ってか知らずか、母は毎日のように今後抗がん剤の入院がどのくらい続くのか、アバスチンの点滴がどのくらい続くのかを気にしていた。私たちが思う以上のストレスがあるのだろう。それは理解できる。思うように回復しない自分の体へのいら立ち、理解がどんどんできなくなる自分の認知状態を考えると、母からすればもう十分だという思いもあるのかもしれない。
 このころになると、すでに母は自分の子どもの数すらわからなくなっていた。デイサービスでは「自分には子どもが三人いる」と言っていたようで、帰宅してそのことをやんわりと尋ねてみると、やはり三人だと言う。私が息子だということはかろうじて理解しているようなのだが、あとの二人があやしい。私の姉のことも自分の子どもだということをしっかりと認識している日もあるが、そうでないこともある。三人といった場合にあと一人ということになるとそこに自分の孫が入ってくることが多くなった。この場合の孫とは姉の子どもたちのことになる。
 そういえば昔母が話していたのだが、母は子どもが三人ほしかったらしい。私を産んだ後にもう一人ほしいと父に言っても、父はもういらないといったために断念せざるをえなかったということである。
 それがここにきて「子どもが三人いる」ということにつながっていたのだろうか。やんわりと訂正してあげると、「そうだっけ?」と言って納得のいかない表情を見せはするものの、それ以上何かいうことはしないのだった。
 そんな状態であるから、治療のことを母が今後どうしていきたいかということを話し合うタイミングというものを私はなかなかはかりかねないでいた。
 だが思ったよりも早くそのタイミングは訪れた。
「もう治療やめようかなぁ」
と母が言い始めたのだ。
「治療をやめてどうするの?」
と言うと、療養型病院なり老人健康保険施設へと行くと言う。父が療養型病院から特別養護老人ホームへと移って最後は老人ホームで亡くなったというパターンであったわけだから、どちらにせよその選択肢をとった場合はもう家には戻れなくなるということを意味する。そのことを母に言うと、
「それはわかるよ」
と言った。果たして本当にわかっているのかどうかは怪しかったのだが、母がそういうのであれば私たちはそれをどうこう言うことはできない。
 私たちは母を自分たちのところに連れてきた時に、長い介護が始まることは覚悟していた。もちろんその介護というものは自分たちが思っていたよりもずっと大変であったことは確かだし、この先どれだけ介護が続くのだろうかという不安はあったものの、努めてそれは考えないようにしていた。後日姉から「私たちに対して不満もあるでしょう」とラインで言われたことがあるが、他者への不満など考えたこともない。そのくらい私たちは余裕がなかったし、自分たちでやるんだという覚悟のもとに行動していたのだ。それに不安や不満を考え出せば自分たちの気持ちはどこかで切れてしまいそうな感じもしていた。もちろん疲れはある。ストレスもある。息子は受験の大事な時期なのに、少し放置気味になっていることも確かだ。息子はそれをあまり表には出さなかったし、大好きな祖母が身近で認知症を発症していることを嫌がっている素振りは見せなかった。
 デイサービスひまわりの郷の所長も、母に「子どもというものは親の介護をするときは覚悟を決めているものだ」と母に話したこともあったようで、それは母も何度か口にしていたし、私自身、母が「迷惑をかけるねぇ」と言うたびに「俺たちは覚悟を決めているんだ」と言って迷惑だなどと思っていないことを何度となく言っている。だからこそ、母を厄介払いするように病院や施設に預けてしまおうなどと言う考えは持っていなかったし、特別養護老人ホームの順番待ちの登録は一切行っていなかったのである。
ただこの時点で母が病気にどう向かい合っていくつもりなのかははっきりとさせておきたかったし、それによって自分たちの覚悟を新たにする必要があると考えていたことは間違いない。
 母は治療をやめると明言すると、少しホッとした表情をみせた。そしてそれを姉と伯父のところに電話して話していた。伯父、つまり母の兄は、
「そんなこと言わないで一日でも長く生きたらいいだろう」
と言っていたようだが、
「私はもう十分だ。ここで幸せに暮らせたから」
と言って翻意することはなかった。姉との電話では何を話されたのかはわからなかった。
 十月二十八日、その日はアバスチンの点滴の日だった。アバスチンの点滴の際は、まず今川医師の問診が先にある。そのあとで点滴となるわけだが、その日は今川医師に手術が入っていて問診ができないことになっていた。だがアバスチンの前には必ず問診があるということを言うと、手術中の今川医師に連絡をとってくれることになり、その間に母はトイレに行くことにした。
 このころの母はとにかく便秘がひどかった。もう一つ行っていたデイサービスで看護師に肛門に指を入れて便をかき出してもらわなければならないほどの状態で、それは家にいても同じだった。さすがに私たちに便をかきださせることはさせなかったが、自分でトイレに座ってはひたすら肛門に指を入れて便をかき出そうとしていたのである。トイレットペーパーに便がついた状態でトイレの床に散乱させていることも珍しくなかった。この時も病院のトイレでそれが始まったのだった。
 ようやくトイレを出ると、そこに今川医師が立っていて私はびっくりした。恰好が手術着のままだったので、おそらく手術の途中で出てきてくれたのだろう。衛生的に大丈夫なのだろうかという心配をよそに、今川医師は面談室へと自ら母の車いすを押していった。
 面談室に入ると、お決まりの
「せんせー、だぁれだ」
「イマガワせんせー」
といういつものやり取りが行われた後、母は、
「治療をやめたいです。施設に行きたいんです」
と単刀直入に今川医師に言った。今川医師はそういうふうに母が言うことを予想していたのかどうかわからないが、まったく動揺を見せずに、
「その歳でよく頑張ってるよ。ここまで戦っている人はいないよ」
と快活な口調で言い切った。ただ、抗がん剤の点滴のために入院することが非常に苦痛で、しかも自分が徘徊してしまっていることを母が言うと、少しトーンが下がった。
「万歳してみて」
と自分も両手を挙げて同じことをするように母に求めた。母も同じように万歳するように両手を挙げた。
「それができるうちは大丈夫だよ」
と言って、あまり聞く耳を持たないような態度を示した。ただやはり八十歳の老人には過酷な治療だと考えたのか、
「それじゃぁ、一回抗がん剤の入院はパスしましょうか。そしてそれから様子をみてまた考えたらいいんじゃないですかね」
と提案してきた。
 その場で結論がでることはないだろうとは思っていたのだが、結論が先送りになったことに少し徒労感に近いようなものを感じた。母の介護を続ける覚悟を決めるなら決めるでそうしたかった。だがネガティブになっても始まらない。この日はアバスチンの点滴のために来ているわけでもあるので、気持ちを再度立て直して私たちはアバスチンの点滴へと向かった。
 アバスチンの点滴をする場所は外の光が燦燦と降り注ぐ明るいところで、外の景色を見ながら点滴ができるところである。点滴は長くなることが多いわけなので、気持ちが沈まないようにそういう明るい雰囲気を作り出しているのだろうか。あまり見てはいけないと思いながらこっそりあたりを見渡すと、同じようにがんの治療のための点滴をしているのであろうと予想される人も何人もいて、詳しい病名が何なのかはわからないまでも、それぞれが何か大きなものを背負っているような雰囲気があった。
 いつもであればそこで点滴が始まってしまえば、妻だけの時にしても私が行く時にしてもどこかで時間をつぶしてきて、終了するころにまたそこを訪れるようになっていた。ただその時は母はどうしても不安な様子を拭い去ることはできずにいた。
「また終わるころ来るからね」
と言って、私たちはその場を後にした。やはりコロナのこともある。病室なり処置室のようなところにずっといることははばかられる。看護師たちは通常の服の上からさらにビニールの感染予防対策のための服装を厳重にしていて、私たちは母のそばにいることは病院関係者の方が快く思わないだろう。それに入院費の振り込みなりデイサービスの支払いなりやることはいろいろあった。
 およそ一時間後にそこに戻ってみると、どうやら母はパニックを起こしていたようだった。不安が募ってどうにもならなくなり、結局はそこにいる看護師を一人捕まえてずっと話し相手になってもらっていたようなのだ。いや、「捕まえて」というと人聞きの悪い言い方になってしまうかもしれない。母の様子を見るに見かねた看護師がそばについていてくれたと言った方が適切なのだろう。
 とうとう点滴も一人で我慢できないところにきてしまっていた。これは私にも妻にも少なからずダメージを与えることになった。どんどんいろいろなことができなくなってきている。その一番は我慢がほとんどできなくなってきたということだ。その後の治療なり介護には様々な障害が生じることが予想された。

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