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花のかげ~第4章 瓦解(2)

二.外と内

 母が通うデイサービスのひまわりの郷は、相変わらず塗り絵ばかりしているというのが母の愚痴だった。そして何もすることがないから暇だと言っていたのと、ひまわりの郷の所長を母は敵として認定してしまったところがあった。
 所長と言う人は、どうも裏表が激しいという評価もある人のようで、母の言葉をうのみにすれば一人で立ち上がってトイレに行こうとするだけで怒鳴られるのだと言う。もちろん一人で立ち上がって移動してはいけないと言われているのに一人で行こうとする母が悪いわけだが、認知症の老人などというものはそもそもそういうものだろう。私も最初のころはずいぶんとそれで戸惑ったし、時にはきつく言うこともあったわけだが、数カ月もするとそんなことには慣れてしまっていた。しかも所長はある意味介護のプロなわけである。そのプロが老人に対して「怒鳴る」というのであれば、それは少し行き過ぎていると言わざるを得ない。
 そんな苦情はケアマネージャーの嶋田さんの耳にも届いた。嶋田さんが母の様子を見にやってきた時、やはり母はそのことを話し出して止まらなくなった。加えて母もひまわりの郷ではやることがなくて暇であり、自分はもっとリハビリをしたいということを訴えていた。
 そんなことから嶋田さんから他の施設を提案されることになった。一つは私の息子が通う中学校の正面にある施設である。そこでは入浴もできるし、なによりリハビリができるわけである。体を動かすことに関しては今川医師もどんどんやった方がいいと言っていたわけなので、その提案はありがたいものではあった。オプチューンを使用する場合は難しいと言われていたが、オプチューンを断ったのであれば、受け入れ可能ということになった。
 もう一つは、違うデイサービスに行くことである。ひまわりの郷よりもずっと大きな小松原園という施設である。先方には嶋田さんから連絡を入れてもらい、まずは私と妻で見学に行くことにした。見学に行ってみて驚いたのは、とにかく規模が大きいことである。そして老人たちが取り組むプログラムも多種多様であるということだった。これならばなんとかなるかもしれないという思いもあって、私と妻はすぐに申し込むことにした。
 ただどうしても避けられない問題があった。土日の問題である。日曜は私がいるから大丈夫だとして、土曜や日曜に息子の受験関連のことが入ってくる場合がある。完全に小松原園にしてしまうと、そのあたりも問題になってしまうわけである。ひまわりの郷は基本は月曜から金曜だとしても、土日もお願いすれば面倒を見てもらえるという融通のきくところだった。そのため、ひまわりの郷とのつながりを完全に切ってしまうのもためらわれた。
 そこで、月曜日はひまわりの郷、水曜はリハビリ施設、それ以外は小松原園とういように三か所の施設を利用するように取り計らってもらった。
 週一回の利用になってしまうことに、ひまわりの郷の所長は少し不満げだった。大きい施設には問題のあるところも多い、と言っては私たちに考えを変えた方がいいということを遠回しに言ってきた。だがここにきて、ひまわりの郷ではもはや手に余るようになってきていたことも確かである。
 母はひまわりの郷で東金さんとけんかになることがよくあったという。お墓のことでは東金さんのアドバイスが非常に効果的で、執拗なまでに私たちにお墓のことを言ってきていた母が東金さんから「お墓は一人一つの時代なのよ」と言われてからはかなりトーンダウンしていたことがある。私たちからすると本当にそれはありがたかった。だが東金さんも認知症なのである。自分のものと他人のものの区別がつかなくなることもよくあるようで、持ち物のことで母とよく喧嘩になっていたらしい。加えて歯に衣着せぬものいいをすることも多い人だったようなので、それが母の癇に障るようなこともあったようだ。
 普通ならば母はそこでぐっとこらえて後で不満をたらたらとこぼすのがパターンだったのだが、認知症の症状が現れ始めてからはとにかく真正面からぶつかってしまうことが増えた。相手も引かないわけだから、あとは施設の人が間に入るしかないわけである。そういう報告が何度も連絡帳の中に記載してあった。
 だが東金さんとの喧嘩に関しては、東金さんにもいろいろと問題があったわけなので母だけを責めるのはそもそも違う。だが母は他の老人たちともトラブルを起こすようになっていた。
 脳梗塞で右手が使えないために字を書けない人に対して、紙に名前を書くように執拗に求めたことがあるらしい。字が書けないと言っても聞き入れず、相手がストレスになってしまうわけである。そんなことも普通の母ならば絶対にやらないはずのことだった。
 リハビリ施設に通うようになってからは、入浴時に問題が発生した。母の言葉では、「ものすごく乱暴に服を脱がそうとした」ということなのだが、実際はどうだったかはわからない。だがその脱がせ方が気に入らなかったのか、施設の人たちを睨み付け、
「責任者に言いますよ!」
と言ったらしい。そういうことが何度かあったようで、施設の人も妻に対して、
「(介護が)大変なんじゃないですか?」
と言ったほどである。
 そういう点では家の中では比較的穏やかだったと言えるだろう。時々私や妻を困らせてしまうようなことを言うことはあったわけだが、さすがに七月以降は私も妻もかなり慣れてきて聞き流したり受け流したりやんわりと修正したりと、御しかたを心得てきたところがあった。
 母にとっては自分の家だろうが息子の家だろうが誰かと暮らすということはそれなりに幸せだと感じてくれていたのではないだろうか。その幸せを壊すような方へと自分から動いていくことはしないでくれていた。もちろん母が私たちにも敵対的な態度をとらなかったのは、なんといっても妻の穏やかさ、やさしさが一番効果的に響いていたからに他ならない。
 六月だったか、夕食に餃子を焼いて食べたことがある。息子が以前から餃子を食べることは「パーティー」だと言っていたことから、我が家にとって餃子を食べるということはちょっとした楽しいイベントだったのである。妻が包んでくれた餃子を私がホットプレートで焼く。ただそれだけなのだが、食卓にはコーラなどのジュースが並び、乾杯してから食べ始めることを幼いころから息子はとても楽しみにしていた。最初の餃子が焼けた時に、母は、
「私、こんなに幸せでいいんだろうか」
といってハラハラと泣いた。
「こんなに食卓が楽しいなんてねぇ」
といってしばらくは感極まった状態になった。そのことは後に自分の義妹にも電話で話していたことがあったらしい。
 そういう幸せな空間というものを母はしっかりと認識してくれていたのか、ぶつかり合って壊してしまう方向へとは向いていかなかった。それだけは本当に助かったと今でも思っている。
 小さなぶつかりが生じそうな場合はとにかくうまく回避させる方向へと持っていくことに私も妻も慣れ始めていた。だからこそ、外での母の様子というのは私たちを驚かせるものばかりだったのである。

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