見出し画像

花のかげ~第3章 彷徨(3)

三.放射線の反動

 ショートステイを終えた後、徐々に母の体調が思わしくなくなってきた。すぐに眠ってしまうことや、ふらつきが多くなってきたことから、家の中での移動に支障をきたすことがまた増え始めた。
 母が寝るところは畳の部屋で、当初は直接布団を敷いていたものの、立ち上がる際の困難さ、立ち上がる過程での転倒の危険性を考えて介護用のレンタルベッドを導入していた。
 それとともに家の中で使う車いすを借りることになった。母からすると、手術をして良くなっていくはずなのに一向に良くなる気配が見えないことも不満であるし、加えて車いすを使用しなければならないことも不満だったようだ。もっともその不満は自分のままならない体に対して向けられるものがほとんであるわけだが、いざ車いすが届くと少し母は鬱のような表情を見せることが増え始めた。
 そうするうちに体はどんどん言うことがきかなくなってきた。散歩にも当然連れ出せない。だいたい歩けないのである。家の前の坂を上り下りするのはまず無理である。必然的に日曜日などは家の中から出られないことになり、ストレスがたまるようになった。
 認知面もおかしくなってきた。墓をどうするかという問題はいつも私たちを悩ませた。十分おきにその話題が母から出されるたびに、墓が三百キロ離れたところにあること、今は忙しくて身動きが取れないことなどを言って聞かせるのだが、すぐに忘れてしまう。しまいには、
「お墓なんてすぐそこでしょ」
と指さして言う始末である。このころから母にとっては三百キロ以上を車で移動してやってきたのだと言うことがわからなくなってきていたのだ。つまり、すぐそこなのになぜやってくれないのか、という感じになってきたのである。
 タブレットを使って地図で示したこともある。自分が今いるところ、かつていたところを線で結び、その距離が三百キロあるのだというと、「ふぅ~ん」という表情をするのだが、またすぐに元に戻ってしまうわけである。
 その距離感の喪失は、被害妄想とつながってくることもあったようだ。私がいないときに、妻に対して「あんたたち(私と妻、自分の兄弟、娘たち)と今川先生、施設の人たちで壮大なウソをついて私をだまそうとしているんじゃないかと思うことがある」と妻に話していたことがあったそうだ。
 また、三月に東京に来た時の話をしても、
「なんだか寝てるうちに連れてこられたって感じなんだよね。目が覚めたら違うところにいたんだから」
というのである。母からすれば、一夜にして違う場所に移動したと思えてしまうような感じだったのである。こちらに来る時の車の中で母が寝てばかりだったことを思い出した。「目が覚めたら」というのもその辺りと関わりがありそうだった。
 日曜日になると、妻と息子を買い物に行かせ、私が母と二人で家に残るようにした。妻にも息抜きが必要だからだ。だがこの時間はなかなか苦痛だった。自分の主張を曲げないので、否定はしないまでも一つ一つ修正が必要になる。聞き流すことは許してくれない。もっとも昔話をしているならばなんとでもなる。不思議なことに遠い昔の話であれば、それはかなり正確だったからだ。だが直近のことになると記憶がかなり怪しい。まして自分が置かれた状況になると、母の発想はあちらこちらへと飛躍した。
 また、いただいたお見舞いに対してのお返しに関しても、私たちが忙しい時に限って私たちを急き立てるような感じだったので、なかなかストレスがたまるものだった。あまりネットを使うだけのやり方は好ましくなかったが、結局はネットを使ってやるしかなかった。六月の下旬にはなんとかお返しを終えてほっとしたのもつかの間、母の兄(つまり私の伯父)から贈り物が届き、それについても「お返しを」と母が言った瞬間に私たちからは深いため息がもれた。
 母の知人から「ちまき」が届いたこともあった。きな粉をまぶして食べるわけだが、母は、
「塩を少し入れるとおいしいんだよ」
と言って塩をどばどばと入れ始めた。少しどころではない。「もういいんじゃないか」と言っても、「もう少し」と言っては塩を足していった。私の息子はわらび餅が好きなので、きな粉をまぶしたちまきに期待感があったのだが、ひと口食べてすぐに吐き出してしまった。結局塩が多すぎたのだ。
 これには母も不快感を丸出しにした。
「東京の人はこういうのは食べないんだ」
と吐き捨てるように言うわけだが、どうにもこうにもその食べ方で一緒に食べることは不可能だった。おまけに私はちまきやきな粉があまり好きではない。妻はきな粉は徹底的に甘くないと嫌なのである。もうどうしようもない。
 結局ちまきを私の姉に送ることになった。保存食であるとはいえ、送られてきたちまきをまた宅配便で送るには抵抗はあったのだが、母がそういう話をつけてしまった以上その通りにするしかないし、何よりあのまま食べ続けるのは拷問に近かった。
 こういう贈り物は正直私たちにとっては混乱のもとになってしまうことが多い。一度私たちに確認をとってくれてからにしてくれればいいわけだが、なかなかそうもいかない。伯父に対して私が一度そういったところ、それは伯父の機嫌を損ねてしまった。相手を思ってやる行為をそのように言われるのは確かに不快だろう。だが見ている側のこともあるわけだ。これはどうにも接点を見出すことは難しいとしか言いようがない。姉は「自分の中で解決すること」と言って、伯父にそれを伝えたことを非難したが、そんな簡単なものだろうか。こちらも目いっぱいの状態なのに。
 とにかく墓に関してはなんとか着地点を見出さなければならないと覚悟を決めて母と徹底的に話し合ったが、それにだいたい二時間近くかかった。もちろん私は一切声を荒げることなく、である。一つ一つ解きほぐすように話を詰めていった。そして次第に妥協点が見出されてくると、それをすべて母が読めるように大きな字で書き出した。決まったことはとにかくすぐに姉に電話して伝える必要がある。あとで聞いてないと言われるのは一番トラブルの元になるからだ。
 母が私の姉に電話すると、出先であることから一時間後に電話してほしいと言われた。だが母は十分おきに「もういいでしょ」といって電話しようとする。それを制しては五分後に「もういいでしょ」ということの繰り返しだった。そしてわずか五行程度の内容を母は何度も何度も声に出して読んでは理解しようとするのだが、なかなか頭に入らないようだった。
 内容はこうだ。父の遺骨は粉骨して日野森霊園に入れる。一部を姉に渡す。母は死んだら粉骨し、樹木葬にする。一部を日野森霊園に入れる。一部を姉に渡す。これだけだ。これが理解できないわけだ。
 ようやく姉に電話した時も、とにかく紙に書いてあることを読み上げているだけだった。その読み上げ方が自分の頭の中に落とし込もうとするときとまったく口調が変わらなかった。自分でも理解できていないのかもしれない。だが私からすればそれでもよかった。少なくともそれで少しでも納得してくれさえすれば時間が稼げるのだ。決まりさえすれば、あとは八月になって私の体に余裕ができた時にやればいい。書いたことを契約書のようにまとめることで、とにかくそこからはもう動かないのだということを母に理解させるしかなかった。そうしてお墓のことでは一応の決着をみた。あとは実行に移す機会を待つだけとなった。何度か「お墓のことだけど……」と母が言って「もう決まったでしょ」と私が少し強く言うと、さすがに母はもう何も言わなくなった。
 そのように日曜日の午前中に私が母とつきあい、午後は母が疲れて昼寝する、そんなパターンが続いたが、徐々に平日のデイサービスに行くべき日も体調が悪い時が増え始め、時にはデイサービスを休んで家にいることも出始めた。
「再発したのか」
と思って病院に連れて行ったことがあるが、その時もMRIは撮ったものの、特に変化はなかった。今川医師は、
「今が一番しんどい時だから。ここから状態を上げていこう。」
といって、あまり意に介さない様子だった。放射線治療の影響で脳が腫れているため、その腫れをとるためにステロイドの薬、「デカドロン」といういかつい名前の薬が処方された。これが功を奏してくれればと祈るような思いだった。
 そうこうするうちに、介護認定のやり直しが行われることになった。前回は病院で私も妻も立ち会えないところで行われたが、今度は私も妻も立ち会えることになった。その日母は朝からあまり状態が思わしくなく、食事をとるために起き上がることはあっても、またすぐベッドで横になる状態だった。介護認定員が来た時も、ベッドから起き上がることはできずに横になったまま話すにとどまった。日付も時間も言えず、調子の悪さを訴えることが多く、介護認定はほぼ間違いなく変わるだろうと予想される面談になった。
 介護認定度が上がれば介護保険の適用範囲も変わる。それによって利用できる施設の範囲も内容も変わる。ただこれに関してはその時点で私たちはそれほど気にしてはいなかった。むしろ施設の人たちの方がどう考えているかなのである。
 もちろん介護施設の人たちはプロであるから、どんな介護認定度であってもやることは変わらないだろう。だがあまりにも介護認定度と実際の姿が乖離しているように見えると印象としてはどうなのだろうかと思うこともある。仕事の内容こそ違わなくても、実態と介護認定度はある程度一致しているのが望ましいような気がするが、これもまた「タイミング」の問題でしかないのだろう。
 それからもデイサービスに行ける日もあればいけない日もあった。デイサービスに行けない日は、当然妻に負担がかかる。仕事をしながら母の相手もしなければならない。そういう時は妻も本当に疲れた様子を見せた。
 私の疲労も徐々に蓄積していった。夜母は九時ごろに寝るわけだが、トイレに起きるときに真っ暗なのは危ないので、私が使っていたLEDライトをベッドに紐でぶら下げておいた。それがベッドの手すりに当たって、「チリーン、チリーン」と音を立てる。それが母が動き出した証拠になるので、私もすぐに目を覚ました。わずかな音で私が目を覚まし、
「どうした?」
と扉を開けるので、
「また起こしちゃったね」
と母はバツが悪そうに言うのがいつもだった。母はなるべく一人で起きてトイレに行こうとするわけだが、やはり転倒は怖かった。
 だが、時には私も眠りが深くなってしまって、母がごそごそしはじめるのに気づかないこともあった。ベッドから起きて左側に行くと扉があるわけだが、そういう時たいてい母は右側に起きて壁を触って扉を探していることがよくあった。
「こっちに扉があるはずなんだけど」
と真顔で言うこともあった。
「ないよ」
というと、
「あるんです。この向こうに寝室があって、茶の間があるんだから」
とふてくされたような強い語調で言うこともあった。
「じゃぁ、こっちから回ってみようか」
といって手を引いて連れていくと、そこには当然寝室や茶の間があるはずはない。あるのは風呂場だった。
「あれぇ~、あるはずなんだけど。……ふぅ~ん……」
と不満げな表情を浮かべ、トイレを済ませてからまた床に就くのだった。
 こうした夜中のやり取りが、少ない時で三回、多い時で七回ほどあった。さすがに私も疲弊していった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?