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花のかげ~第3章 彷徨(4)

四.一時的な回復

 六月下旬、母の定期通院があって、その時は妻が帯同した。その時もベッドから立ち上がるのがやっとの状態になっていたため、妻一人で連れていくことは難しかった。ちょうど私の息子が学校が休みだったこともあり、その日は息子の力を借りて母を車に乗せ、病院へ向かった。
 それと前後するが、一度私が一人で病院へと赴き、今川医師と面会していた。その後の展開を考える上で、母のいないところで話しておきたいというのが主旨であった。再発はしていないことはわかっていたのだが、どうにも母の状態が思わしくないため、その後どうなるのか予想がつかなかったのだ。今後再発した場合どうなるかと問うと、
「麻痺か認知ですね」
と今川医師は少しそっけなく返してきた。自分の手術には自信があるのだろう。まだ手術をしてそれほど経っているわけではないので、すぐに悪くなることなどありえないという感じだったのだ。今川医師も忙しい立場なのは手術を一日に何件もこなすことからわかるのだが、今川医師はパソコンのモニターから目を離さずに私の質問に答え続けた。
「介護がつらくてもうダメだというのであれば、治療はそこで止まりますからね」
と釘をさすようにいわれたわけだが、それでもそのまますんなりと状態が上がっていくとは到底考えられなかった。その不安を口にすると、
「徹底的にやるなら、点滴という方法もあります」
と、新たな提案をしてきた。どうやら抗がん剤の「テモダール」と併用することが一般的な「アバスチン」というものがあるらしく、それは脳の浮腫を軽減する効果もあるらしいが、これは抗がん剤ではなく「制がん剤」の部類に入るらしい。
 ただし、この時点ではアバスチンをやるかどうかという決断には至らなかったし、私に対して今川医師がどうするか、つまり徹底的にやるのかどうか、という意志確認をすることもなかった。
 妻が帯同した時に話を戻そう。妻が母を連れて行った際、今川医師はケアマネージャーの嶋田さんと電話で口論になった。そのころ、母の様子が思わしくないことから嶋田さんに相談していた時、嶋田さんは介護認定の再認定を勧めてくれて、また訪問看護などの選択肢も示してくれていた。だが今川医師はそれが気に入らなかったらしく、
「あんた、(担当を)代わってくれない?」
とまで言い切っていた。今川医師からすれば、介護に関わる人たちはどうしても患者を内へと囲い込もうとする傾向があるとして、もっと外に出てリハビリを積極的にやってほしい立場からすると真逆のことばかりを言うというのが本音だったようだ。おまけに一度書いた介護認定に関する書類も、再認定のためにまた書かなければならず、それも面倒だったのだろう。手術をした立場からすれば、このまま順調にいけば回復していくはずであるわけで、それを内側に閉じ込めていこうとする動きに対し、我慢がならなかったのかもしれない。
電話でひとしきり大声を出した後、妻と母に、
「次回からアバスチンをやりますから」
と今川医師は言った。どうやらアバスチンをやれば、一人でトイレにも行けるようになる、というのである。「徹底的にやるならば」という仮定が、この時点ではなぜか既定路線になっていた。
 それから数日後、七月第一週の水曜日に母はアバスチンの点滴を受けることになった。その日は息子も学校だったので、車に乗せることが難しいと考えた妻はタクシーで病院へと向かうことにした。タクシーに乗るのも精いっぱいの状態で、タクシーの運転士が手伝ってくれるほどの状態だった。
 点滴はおよそ一時間。今川医師の問診の後にいろいろな説明を受けてから点滴が始まった。点滴中は帰りのタクシーにどうやって乗せようかと考えていた妻だったが、点滴後の母は様子が違っていた。
「なんだか、体に一本芯が通ったようなんだよね」
といって、母は自分の足でしっかりと歩いた。タクシーにもすんなりと乗り込み、家に上がる際の段差も介助こそされたが、すんなりと昇ることができたという。
 帰宅した私も目を見開くような状態だった。顔は晴れやかになり、饒舌だった。そのあまりの改善ぶりに、目を疑うばかりだった。
 それからは車いすが必要なくなるにはそれほど時間がかからなかった。難なくソファーや椅子から立ち上がり、すたすたとトイレに向かって歩いていく。左手は相変わらず不自由だったが、足どりは本当にしっかりしてきた。このあたりから何度か散歩もできるようになった。もっとも坂を下ったり上ったりする必要があるので一人で散歩させるわけにはいかなかったのだが、再び外に出て歩ける喜びをかみしめることになった。外に出ると、
「あぁ~、気持ちいい。こうやって外に出られるっていいね」
と言う母の顔は実に晴れやかだった。
 その一方で、「徘徊」の心配もあった。足腰がしっかりしてくるということは、徐々に徘徊する危険性が生じることも考えなければならなかった。実際母はまだそこが自分が住んでいた飯山の家であると思うことがあったし、そうでないとしてもすぐ近くに自分の家があると思い込んでいるところがあった。デイサービスから帰ってくる時は一人でバスに乗って帰ってきていると言ってきかなかったし、認知の部分においては残念ながら回復は見られなかった。
 それでも、トイレに行く回数も減った。夜中に起きる回数は二回程度に減っていたのが私にはとてもありがたかった。何度か私が起きそびれてしまい、母が一人でトイレを済ませて戻ってきたときに私が気がつくということすらあった。
「あんたを寝かせてあげないとね」
と何度も言われたが、正直それはありがたかった。休息は夜しかないわけで、夜中に何度も起きれば当然睡眠不足になるし、いつ起きるかわからないので当然眠りは浅くなる。それが少しでも解消されるというのは本当にありがたい。だが一人でトイレに行かせるのには不安があった。また、万が一のことを考えると廊下の電気はつけておく必要があり、その灯りのせいで私の眠りはどうしても深くなることはなかった。
 加えて歯磨きに少し執着するところもある母は、歯磨きにかなり時間をかける。車いすに乗っているときはそのまま洗面所に連れていくし、歩いて行くにしてもその間支えていなければならなかったのだが、それも必要ないまでになっていた。
「もうバッチリなんだよねぇ」
といって、少しおどけてちょっとだけスクワットのような姿勢をとったことがある。だがそれが本当に無理をしているわけでも強がっているわけでもなかった。
 これがアバスチンの効果なのかどうかはわからない。浮腫をとるためにステロイドもやっていたわけで、アバスチンというよりもむしろステロイドの効果なのかもしれないが、それはわれわれにはわからないことである。調べてみればアバスチンは腫瘍を大きくしないための薬のようであるし、アバスチン単独では腫瘍が治ることはないという。やはりテモダールと一緒に使うことが多いようであり、脳の浮腫にも効果があることは間違いないようだった。
 それにしてもたった一度の点滴でここまでよくなるものだろうか。それが信じがたいところだった。ステロイドや抗がん剤、アバスチン、それらが全部うまく機能したと素人は考えるしかなかった。
このアバスチン、この後もずっと続けていくことになる。

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