見出し画像

花のかげ~第3章 彷徨(5)

五.抗がん剤の再開

 七月は比較的穏やかに過ぎていった。思えば私も妻も一番仕事に集中できていたかもしれない。
 懸案は父の遺骨とお墓だった。もともと父が入るつもりで買った日野森にある霊園はそのままになっており、そこをどうするかだったのだが、母が日野森の墓の処遇に困っているうちに混乱してきて、何をどうすべきかということが分からなくなってきていた。一時期は墓じまいをすると言い切っていたため、一度も納骨しないままに手放してしまうのかとは思ったものの、それは遠方に墓があると私が困るのではないかと考えてのこともあったようだ。しかし父の骨はまだ飯山の家に置いたままになっていたわけで、いずれにせよこれを何とかしなければならない時に差し掛かっていた。
 姉の嫁ぎ先が自分の家の墓に入れてやってもいいと言い出したことから母が舞い上がり、いろいろと感情の行き違いが発生していたが、このころになると少し落ち着きを取り戻していた。とはいえ、飯山の家はいずれ無人になってしまう。父の骨は日野森の霊園に入れることで落ち着いていたわけであるからそこに納骨するのは構わない。私自身、いろいろな思いもあって自分が死んだときにそこの墓に入るつもりは毛頭ないのだが、私も長男である以上そのくらいのことはしなければならないという思いもある。せめて私が元気なうちは、日野森の墓ぐらいなんとか維持していかなければならないと考えていた。
 そもそも私自身は自分自身の宗教観というものを持つことにあまり積極的ではない。死後の世界だとか天国や地獄だとか神の存在だとかそういったものに対しての信仰心が非常に乏しい。もちろん宗教を否定するつもりはないし、特定の宗教を信仰している人を忌み嫌うことはまったくない。誰かの葬式に参列すれば、そのやり方に則って焼香をし、その他の儀式に従う。つまりその人が信仰している宗教を尊重する気持ちはあるのだ。
 その一方で、死後のことに関して何も考えていないかというとそれも違う。ここで言葉にするのはなかなか難しいのだが、私は宗教の中の死生観というものはしょせん人が死ぬのが怖くて作り出した勝手な考え方に過ぎないと思うところがある。
 矛盾するようだが、さまざまな宗教がそれぞれ持っている生きる上での道しるべとなるような道徳的なことや哲学的なところには興味があるし、学ぶべきものが非常にあると思う。偶像ではあっても仏像や宗教画など、宗教美術に関しての価値というものは認めるところがあるし、そもそも私は宗教画や仏像は好きである。
 だが死んだらどうなるか、とか極楽浄土とは何か、というものに関してはあまり関心がない。子どもの教育のために「そんなことをしたら仏罰があたる」というのは宗教のもつ良い側面だと思うが、死後極楽に行くために熱心に何かを拝むというのはどうにも虫がいいものに思えてしまう。何かメリットがなければ拝まないようにすら思えてしまうこともある。むしろそんなものはすべて矮小なものにしてしまうくらいの超越したものが存在するのではないかと思っているくらいだ。
 だから手塚治虫の『火の鳥』を読んだ時、そこでテーマとなっている「コスモ・ゾーン」という概念を知って、まさに自分が思っていたことに符号するような気がした。そこには仏教もキリスト教もイスラム教もその他の宗教も何も関係がない、大きな「生命の概念」というものなのだ。いや、生命そのものすら超越しているかもしれない。その概念のもとに人は生命の一つを与えられて地上に具現化するわけだ。死ねばまたその概念の中に吸収されていく、というわけである。
 だからまったく宗教観のようなものが無いというわけでもないし、もし宗教のようなものが何かないのかと問われれば、どうしても明確なものを言わなければならないのだとすると、私にはこれが一番近いものであるとしか言えない。
 そういうわけで、特定の宗教の考えだとか教えを押し付けられるのはまっぴら御免なのである。だから父の場合は父の遺志が無宗教葬とあったのを幸いに無宗教で執り行ったわけだが、それを父の本家の人たちが真言宗豊山派でやるために、最後に全員に般若心経を聞かせようとしたことには腹が立った。父方の親族だけでやればいいものを、立ち上がりかけた参列者を座らせてまで全員に聞かせるのはまったく違うと感じた。そのため私と父の実家との間には深い溝ができた。いや、ここでは書けないまでも深い溝というものはそれ以前にも私にはあったのだが、それを私自身が明らかにさせたのはその時である。
 真言宗豊山派を代々信仰してきたと明言する山野辺の父の実家は、とにかく葬式はかくあるべしという感覚が強い。自分たちの葬式はそうやっていただければそれで結構なのだが、こちらのやり方にまで口を出されたり、後でこそこそ、ひそひそと陰口をたたいたりするのもまったくいやらしい話だ。父の葬儀で私がぶつかったことに対し、母はずいぶんと嫌味を言われたようだ。特に父の妹は気が強く、皮肉屋である。面倒見がいいところもある一方、自分の意にそぐわないものにたいしてはチクチクと皮肉や嫌味をいつまでも言う。加えて田舎の年功序列至上主義的なところもあって、私が異を唱えることなどありえないというわけだ。当然「超絶主義(成人するまで一つの宗教に縛りつけない、という考え方の一つ)」など、そういう人たちにとってはちゃんちゃらおかしいということである。代々の信仰こそが絶対、というわけだ。そもそもそういう考え方こそ宗教を世俗的にしてしまっている要因の一つだと思うわけだが、事なかれ主義にならずに私がものを言ったことは大問題だったわけだ。
 一方母はかつてから樹木葬がいいと口にしていた。それは構わないのだが、話す相手によって言うことが違うこともあり、私自身その真意をはかりかねるところもある。加えて、
「私が死んだら、山野辺には言わないで」
とも言っていたくらい、父の実家に対しては母なりの思いというものがあるようだった。ただしこれも母の手術の前から、その日によって言うことが違ったり、相手によって言うことが違っていたりすることもあって、どこまでが本心なのかはわからないと言える。
 そんなわけで、父の納骨についてもどうしても二の足を踏んでしまうところがあったわけだ。墓が決まれば父の実家は必ずやってくる。そして墓の掃除がどうのこうのと言い出すに決まっている。それが母は嫌だったというのが、父の納骨をなかなかせずにきてしまったことと、墓じまいを言い出したことの理由なのである。
 ただこれはなんとかしなければなるまい。そこで、父の遺骨は粉骨をすることにした。姉が粉骨のための手はずを整えてくれて、父の遺骨は粉骨され、ひっそりと日野森の霊園に入れることにした。少量を姉が持ち、あとは霊園に入れてしまう。そういう方向で行くことにした。
 あとはいつ実行に移すかである。ただ仕事の関係でどうしても七月は動けなかった。母からすればお墓は車で十分か二十分ほどの距離のところにあるような感覚であったが、実際には新幹線を使わなければならない。それをいくら言っても、母は「ふぅ~ん」と聞き流す術をこのころは体得しつつあった。
 いろいろ調整した結果、実行するのは八月となった。
 その前にやるべきことがある。それは母の抗がん剤再開であった。それまでは入院で対応していたものを、今度は服薬という形で対応しなければならない。副作用に対してもいろいろと準備が必要になった。抗がん剤は六月でいったんお休みになっていたわけだが、七月の最後の週に一週間服用することになっていた。
 その抗がん剤の処方は、アバスチンの点滴と重なっていた。二度目のアバスチン投与である。一度目でかなりの改善が見られたため、二度目、三度目とやっていくうちに母の状態は徐々に改善するのではないかという期待感があった。
 その期待感は、姉も提案してくれていた、一度飯山の家に帰宅させ、その後そこを完全に引き払って私の家、つまり桂田に行くということを意識づけることが実行できるかもしれないということにつながっていた。やはり距離感の喪失に伴う様々な見解の相違は私たちのストレスになっていた。それが解消できるとなると、本腰を入れて介護に向かい合うこともできるからである。
 だがアバスチンの二度目が終了した時にそれは軽い失望となって跳ね返ってきた。思ったような効果が見られなかったからだ。だが期待しすぎてはいけない。アバスチンは制がん剤でしかない。脳の浮腫をとる効果もあるようだが、劇的なものを期待しすぎてはいけないわけだ。一回目があまりにも目に見えるものだったために、私たちは少し期待しすぎていたのである。今後も大きな期待はしない方がいいと私も妻も思った。
 抗がん剤の服用は吐き気との闘いでもあるため、強力な胃薬も処方されていた。朝も暗いうちに胃薬をまず飲ませる。そしてその二時間後に抗がん剤を飲ませる。胃薬は最初の三日だけ飲めば一週間効果が続くというものである。最近はこういう薬が抗生剤などでも見受けられる。便利になったものだ。
 副作用は多少はあったものの、母が嘔吐することは無かった。体がだるいことはあったもののそれほどひどいわけでもなく、これなら今後も月一回の抗がん剤の投与はなんとかなるだろうという気がしてきた。もっともこれは次の時にもろくも打ち砕かれることになるわけだが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?