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年末年始をコリン・ファレルのA24映画でダウナーに過ごした話

今年の年末年始も例年通り、暇だった。しかし暇であること自体に不満はなく、積読しっぱなしの本を読んだり、Netflixで「マイリスト」に追加したままのドラマや映画を一気に観たりと、少なくとも文化的には贅沢な時間が過ごせている。家族との時間を確保できるのもいい。

だが、これらは週末や連休でも出来ることだ。昔はもっと年末年始を賑やかに過ごしていたと思う。それは主として親族との関係性に依るところが大きい。元旦から父の生家を訪れ、従兄弟たちと遊んだり、祖父母や叔父・叔母たちからお年玉をかき集め、ほくほくしたりしてたものだが、歳を重ねるごとにそういった機会は減っていった。

そんなわけで今年も家族以外の誰とも会うことなく、年末年始を過ごしていた。気軽な反面、一抹の侘しさもある。これは失われた人間関係がいっきに顕在化するからかもしれない。今や祖父母は父方・母方ともにこの世を去り、従兄弟たちとも疎遠だ。学生時代の友人たちともほとんど連絡を取っていない。

近年は仕事で台湾を行ったり来たりしていたため、台湾人の友人が多いのだが、彼らは日本にいないし、そもそも台湾では春節の方が重要だ。かと言って最近交流のある日本人の多くは友人というより仕事関係者だ。友情が無くなることはないが、その対象は移り行く。

加えて昨年は祖父が亡くなったこともあり、新年の挨拶や年賀状を控えていたため、とりわけ人間関係が希薄だった。

自分自身の生き方や価値観が変わっただけでなく、周囲の人々や社会だって変化している。大晦日にベッドに横たわりながら、iPadで映画を観て過ごしているのも、僕自身が選んだことなのだ。それでも昔のことや会わなくなった人のことは考えてしまう。

そんなうら寂しさを抱えていると、視聴する音楽や映画にも影響を及ぼすのだろうか。年末年始だけで、コリン・ファレル(Colin Farrell)の主演映画を立て続けに3本も観てしまったのだが、サスペンスやブラックコメディー、ヒューマンドラマなど、いずれも手放しで楽しめるタイプの映画ではなく、なんだか内省モードに拍車がかかってしまった。

なぜコリンが主演している映画ばかり観たのかというと、昨年公開されたコリン主演映画『イニシュリン島の精霊』に心を揺さぶられて以来、気になる存在となっていたからだ。

それまで僕が持っていたコリンの印象といえば、「お騒がせ俳優」。名うてのプレイボーイとして、数々の女性セレブたちと浮き名を流し、ゴシップばかりが先立ってしまい、俳優としての肩書きが霞んでしまっていたと言わざるを得ない。

また、コリンが出演している映画もあまり観たことがなかったので、俳優としての才能についても今一つピンときていなかった。そういった先入観があったため、『イニシュリン島の精霊』で「話がつまらなすぎて友人に絶交される男」パードリックという、二枚目からは程遠い役をコリンが演じているのには驚きがあった。

カメレオンのごとく、与えられた役柄になりきる俳優は多い。というよりそれが役者の本分ともいえるのかもしれないが、役柄にどこまで感情移入できるかは俳優自身の人生経験に依るところも大きいはずだ。『イニシュリン島の精霊』で動揺し、無配慮な行動によって事態をさらに悪化させていくパードリックの惨めさにはリアリティがあり、「これはコリン自身も思い当たる節があるのでは?」と思わず勘繰ってしまう程自然な演技だったのだ。

これを機に、最近のコリンの活動に興味を持ち、彼の出演映画を観てみようと選んだ3本が、ヨルゴス・ランティモス監督の『聖なる鹿殺し(邦題:The Killing of a Sacred Deer)』、『ロブスター』と、コゴナダ監督の『アフター・ヤン』だ。意識していたわけでも無いのに、全て気鋭の映画スタジオ、A24の作品だった。

聖なる鹿殺し』はこの中では最もダークな作品。本作でコリンは寡黙な心臓外科医、スティーブンを演じている。バリー演じる謎の少年、マーティンの登場によって、家族に次々と不幸が降りかかり、スティーブンが正気を失っていく様は圧巻の演技だった。キャストも豪華で、ニコール・キッドマンや、『イニシュリン島の精霊』にも出演し、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの若手俳優、バリー・コーガンが出演している。

個人的に最も楽しめた作品は『ロブスター』だ。「独身者は身柄を確保され、45日以内にパートナーを見つけなければ、自ら選んだ動物に変えられてしまう」というディストピアな世界を描いた、ブラックコメディ。コリン演じる主人公、デヴィッドは妻と別れ、パートナーを見つけるために他の独身者たちとともにホテルに収容される。

デヴィッドは生まれ変わる動物としてロブスターを希望していたのだが、カップル成立への期限が差し迫る中、ホテルを脱走。独身者によって構成され、恋愛を一切拒絶する反体制派のグループ「The Loners」に加わる。しかし、そこで一人の女性構成員に恋をしてしまうことから、さらなる波乱が降りかかる。

映画自体はオフィシャルに「コメディ」と紹介されているだけあり、デヴィッドの言動には終始笑わされたのだが、コミカルさの中にも、何か途方もない虚しさを抱えているような、闇を感じさせる人物として演じられている点に、コリンの俳優としての妙を感じた。

前述の、ヨルゴス・ランティモス監督による2作品はいずれも暴力的・性的な描写が多く、終わり方も後味が悪い。その一方で、コゴナダ監督の『アフター・ヤン』はAIロボットと固い絆で結ばれた家族を描いた、SFタッチのヒューマンドラマとなっており、切なくも、心に沁みる作品だった。

本作でコリンが演じるのは、茶葉の販売店を営むジェイク。妻のカイラ、中国系の養女ミカ、そしてミカのベビーシッター役として同居するAIロボット、ヤンの4人で暮らしていたのだが、ある日突然、ヤンが故障で動かなくなってしまう。ヤンの修理を試みたところ、体内から「一日ごとに数秒間の動画を撮影できる特殊なパーツ」が発見される。ジェイクはVRメガネを使い、そのメモリに接続し、ヤンの「記憶」を追体験する中で、ヤンの過去を知ることとなる。

ジェイク一家が、ヤンの故障(死)を受け入れ、その喪失感と折り合いをつけていく過程が繊細に描かれていて、日本的な侘び寂びの美学を感じる静謐な作品でもあった。それはコゴナダ監督が、小津安二郎監督を信奉していることや、本作のサウンドトラックを日本人作曲家 、Aska Matsumiya、オリジナル・テーマを坂本龍一が、それぞれ担当していたり、挿入歌として小林武史プロデュースによる楽曲『グライド』(歌唱はMitski)がフィーチャーされているなど、音楽面で多くの日本人が関わっている点も無関係ではないはずだ。

AIロボットであるヤンが感情を持っていたのかどうかは、劇中では明言されていない。しかし、ヤンの存在によって、周囲の人間たちの心が動いているのは確かだ。ヤンのメモリに残された映像(記憶)を再生することで、残された家族が自分たちを客観視し、考え、語り、感情をぶつけ合い、人間性が引き出されていく様子が美しかった。そしてAIロボットと共存する未来はそれほど悪いものでもない、と思えたりもした。

これらの3作品を振り返ってみると、コリンが演じるキャラクターは皆、どこか雰囲気が似ていることに気づく。『アフター・ヤン』のジェイクは物静かながらも、お茶については一家言持つ職人気質の人物で、感情が表に出ることはあまり無い。『聖なる鹿殺し』のスティーブン、『ロブスター』のデヴィッドもデフォルトは喜怒哀楽に乏しく、どこか影のある人物として描かれている。しかし、コリンのインタビュー動画などを見ると、普段の彼は饒舌で朗らかな雰囲気を纏っているので、そのギャップも面白い。

コリンはテレビ番組『Actors on Actors』でヒュー・グラントと対談を行なっており、そこで出演映画の決め方について聞かれ、「個人的な傾向としては、より小さく、私的な作品に純粋に惹きつけられる」と答えている。また、低予算ながらも、役が魅力的な作品について「大きなオーディエンスを見つける必要がないからこそ、キャラクターの特異性が強く、(演技による)内面的な苦闘を通じて、知的あるいは感情的な冒険への手段を見つけることができるかもしれない」と話していたので、今回取り上げた3作品への出演も納得できた。

『聖なる鹿殺し』では幸福な家族が、些細な出来事をきっかけに崩壊へと向向かい、『ロブスター』ではパートナーを持たない独身者が動物に変えられ、『アフター・ヤン』ではAIロボット、ヤンと固い絆で結ばれている家族がヤンの故障(死)と向き合う。いずれも家族のあり方に疑問を投げかける、挑戦的な映画だった。将来的に結婚するのか、独身のまま過ごすのか、まだどちらとも言えない僕にとっては、考えさせられるものがあり、鑑賞後の余韻も長引いた。今後もコリンの活動に注目していきたい。

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