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10 What Are You Standing On? 白岩英樹

ゼミ生の卒論を読んでいる。どれも本当におもしろい。しかし、指導教員の立場上、おもしろい、おもしろいと連呼しながら読むだけでは済まず、添削と称して朱字で加筆を促したり、修正案を提示したりせねばならない。全員の文字数を合わせれば優に書籍化できるくらいのボリュームがあるから、膨大な時間と労力を要する。それでも、誰が何のために読んでいるのかわからない書類を作ることに比べれば、大学教員としての冥利を感じる学務である。

わたしがおもしろいと感じる卒論は、総じて以下の2種類である。

(1)わたしの知らないことが書いてある
(2)わたしの知っていることが予期せぬ理路で展開される

(1)については、どこからかお叱りの言葉が飛んでくるかもしれない。それはお前の勉強不足だ、とか、頭が悪い、とか。それらのご指摘には、ごもっとも、仰せのとおりです、と応えるしかない。読んでも読んでも、記憶のそばからこぼれていくし、手を伸ばして掴み直そうとしても、そもそもなにが抜け落ちたのかも定かでないのだから、虚空を引っかくばかりで、書架に並ぶ本を次々と手にとっては、再読に再再読を重ねることになる。そうしてようやく、こぼれ落ちたものが何であったのかに気づく。

(2)に関しても、それはお前の知性が足りない、とか、呑み込みが悪い、と、苦言を呈されるかもしれない。それらにも、御意、おっしゃるとおりです、と応じるしかない。ページをめくってもめくっても、論理展開などどこ吹く風、文体から染み出る息遣いや身体性に酔うばかりで、いつのまにやら筋道を離れ、邪径をさまよい、星座を指で辿るように事象と事象とのあいだに架空の線を描いている。そうして初めて、すっぽり抜け落ちた関係性が見え始める。

(1)にしても(2)にしても、卒論を書いたのは、ほかならぬゼミ生自身である。わたしはおもしろがりながら、いくつかの方向性や代替案を示唆したにすぎない。
卒論執筆以前のゼミ生たちもまた、「知らないこと」だらけで、「予期せぬ理路」はまったく見えていなかった。しかし彼らは、痛苦にあえぐ人々が構造化されているアメリカ社会にメスを入れた。そして、我々がせわしない日常の前提にすえ、すっかり内面化した価値観を1つひとつ検証していった。その結果、自他の被害性と加害性とを交差的に問うような卒論が生まれたのだ。

〈征服者/強者〉の論理に覆われるアメリカ

わたしにとって「知らないこと」や「予期せぬ理路」への視座が開かれたのは、COVID-19のパンデミック下だった。
2017年に第45代ドナルド・トランプ政権が誕生して以来、彼の大統領らしからぬ一言一句、一挙手一投足に、アメリカ国内のみならず、世界中が翻弄されていた。フェイク・ニュースやオルタナティブ・ファクトといった、虚妄にまみれた言葉の数々。WHOへの資金拠出停止に代表される、国際協調や相互扶助なき自国第一主義“America First”。COVID-19の感染拡大に対する無策と専門知の軽視……気づけば、「先進国」アメリカの死者数は世界最大になっていた。

第8回で青木さんが語ったように、イスラエルによるジェノサイドをなかば黙認しつつ、中東各地への爆撃を命ずる第46代大統領ジョー・バイデンの暴挙を眼前にすれば、トランプ政権が特別に「異常事態」であったとは言い切れないのかもしれない。だが、あえて両者を凝視し、そのあいだに確かな差異を看取するとすれば、それはトランプが自らの白人性を〈乱用/悪用〉して当選した「アメリカ史上初の白人大統領」であることである(コーツ『僕の大統領は黒人だった』)。2016年の共和党予備選挙時から、彼の主張は一貫して〈征服者/強者〉の論理からしか発しえないものばかりであった。

白人警察官デレク・ショーヴィンによるジョージ・フロイド氏への暴行殺人が引き金となってBLM(ブラック・ライブズ・マター)運動が勢いを増すと、トランプが煽り続けた「分断」の境界線はみるみる露わになった。白人至上主義の集会を擁護する一方で、BLMには「法と秩序(Law and Order)」を厳格に適用する。彼の言動は〈征服者/強者〉と〈被征服者/弱者〉とのあいだに明確な境界を設け、前者の論理によって後者の倫理を排除しようとする、時代錯誤的な信念に基づいていた。移民・難民を「動物」と呼ぶ非人道的な世界観も、元をたどれば同じ病根から発している。

Ta-Nehisi Coates. Between the World and Me, One World.
「必読書である――トニ・モリスン」(撮影:白岩英樹)

無知という加害

しかし、アメリカ黒人文学の伝統を継承するタナハシ・コーツは、2015年に全米図書賞を受賞した『世界と僕のあいだに』において、警察による暴力と司法権の乱用が、市民によって生み出されていることを指摘していた。

警察はアメリカそのものの意志と恐怖(will and fear)とをみごとに反映している。(中略)そうした政策に付随して起こっている乱用(abuses)、つまり、無秩序に刑務所が増えてゆく状態、黒人のでたらめな拘留、そして容疑者への拷問は、民衆の意志の生んだもの(the product of democratic will)なんだ。

タナハシ・コーツ『世界と僕のあいだに』池田年穂訳、慶應義塾大学出版会、78頁

日々、世界中に拡散するBLMの動向を追いながら、わたしの身体はジョージ・フロイド氏の消えゆく生命に同期しつつあった。約9分にもわたって頸部を膝で圧迫されたフロイド氏の悲痛な叫び “I can’t breathe(息ができない).” が耳目にふれるたび、胸が詰まり、鼻や口に異物を押し込まれるような恐怖を覚えた。そして、過呼吸の状態に陥った。

しかし、フロイド氏の首を押さえつけたショーヴィン受刑者の膝に力を貸していたのは、ほかならぬわたし自身であった。「知らないこと」がすっぽり抜け落ちたまま〈征服者/強者〉のアメリカをまなざすだけで、〈被征服者/弱者〉の叫びに耳を寄せることを怠ってきたのだから。それまでも「予期せぬ理路」への扉を目にすることはあったにもかかわらず、そのノブに手をかけてこなかったのだから。無知は容易に加害へ結びつく。ショーヴィン受刑者の膝はわたしの膝でもあった

アメリカだけでない。我々は身近なところでも、痛苦にあえぐ〈被征服者/弱者〉を足で踏みつけ、そのことに気づかぬまま、彼らの犠牲の上にあぐらをかいて生きているのではないか。
海の向こうから響くフロイド氏の悲鳴とショーヴィン受刑者の白眼にさらされ、と同時に、息子への遺言のようなコーツの著作にふれて以来、ことあるごとにゼミ生や受講生たちと自問しあうようになった——“What are you standing on?(あなたは何の上に立っているのか?)

現代に残る奴隷制としての人種資本主義

第7回でふれたように、南北戦争以前、黒人たちはアメリカ最大の輸出品(綿花)を生産し、白人たちはその利益によって多額の外貨を獲得していた。しかし、奴隷から解放されても、黒人たちに白人と同等の市民権が与えられることはなかった。彼らは「無権利状態」のまま放置され、南部諸州では人種隔離制度ジム・クロウ法によって新たな差別に甘んじねばならなかった(石川「『連邦の維持』と奴隷制度」)。

その結果、黒人たちは以前にもまして苛烈な暴力にさらされることになった。解放以前の奴隷は「動産」として扱われていたため、誰かの「所有物」である彼らに危害を加えることは(奴隷主自身を除けば)許されなかった。だが、奴隷制の廃止によって、その抑止・抑制の力学が失われると、黒人は女性も男性も「無法状態」に置かれることになったのである(ベリー&グロス『アメリカ黒人女性史』)。ジム・クロウ法下では5000人もの黒人がリンチによって殺害されたという(ダンバー=オルティス『先住民とアメリカ合衆国の近現代史』)。

鎖につながれたまま道路造成工事に従事する囚人労働者(1908年、NYPL-Degital Collection)

しかし、南北戦争から約1世紀を経て、1964年にようやく公民権法が制定されると、南部各州のジム・クロウ法も一斉に廃止される。公民権法自体にも改正が加えられ、状況は次第に改善していった。
にもかかわらず、〈労働力=資産〉として黒人の身体を搾取するシステムは、かたちを変えて残った。それが「人種資本主義(racial capitalism)」である。アメリカ史研究者の貴堂嘉之は政治学者セドリック・ロビンソンの論を紹介しながら次のように説く。

人種資本主義とは、人種的に中立と思われてきた資本主義の原型が、実は徹底的に人種化されているという観点から世界史を問い直すべきとの論であり、セドリック・ロビンソンは大西洋奴隷貿易と南北アメリカ大陸の植民地化が始まったときから、すべての資本主義は、物質的な収益性とイデオロギー的な一貫性において、人種資本主義によってできていたのではないかと問う。

貴堂嘉之「移民の世紀」
木畑洋一・安村直己責任編集『岩波講座 世界歴史16 国民国家と帝国19世紀』岩波書店、140頁

〈征服者/強者〉のレイシズムが「法的権威と制度的支配」をまとった資本主義に統合されると、それは動かしがたい社会構造として長く残存することになる(ディアンジェロ『ホワイト・フラジリティ』)。〈被征服者/弱者〉は押しつけられた法や制度の論理を前に、なすすべを失ってしまう。

事実、アメリカでは黒人の肉体が「比類のない天然資源(a natural resource of incomparable value)」として扱われ、その破壊がいまなお「伝統(tradition)」として受け継がれている。そして、世代をまたぐたびに強化され、「世襲財産(heritage)」として資本主義の構造に組み入れられている(コーツ『世界と僕のあいだに』)。

光嶋さんは第9回でバックミンスター・フラーの思想を探究しつつ、彼の「『宇宙船地球号』は有限であり、資本主義のもとで無尽蔵に搾取していては沈没してしまう」と説いた。もし、アメリカが「沈没」することがあるとすれば、それは人種資本主義を容認する社会が、黒人をはじめとする〈被征服者/弱者〉の身体を食い尽くすときではあるまいか。

BLMの深刻な背景

経済の根本には、いつの時代も変わらず、我々の身体と「身体を支える社会」があったはずである(マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』)。誰かの身体に危害を加え、それを支えるはずの社会を骨と皮ばかりに削ぎ落とすシステムを、経済などと呼べるだろうか。そのような代物はただの制度的暴力にすぎない。

アメリカの制度的暴力を容認した人種資本主義は、つねに「複合体(complex)」のかたちをとった。建国当初は「軍事-棉作複合体(military-cotton complex)」。入植者たちは軍事力によって先住民族から土地を収奪すると、そこで綿作を主とした大規模なプランテーションを展開した。〈労働力=資産〉としての黒人の身体は、〈征服者/強者〉にさらなる富をもたらした。人種資本主義は、「暴力と強制(violence and coercion)」を広範囲に適用し、着々と「綿の帝国(empire of cotton)」の礎を固めていった(ベッカート『綿の帝国』)。

奴隷労働と綿花生産の関係を示す地図:1860年(NYPL-Degital Collection)

そして、今日のアメリカで肥大化しつつあるのが、「産獄複合体(prison-industrial complex)」である。軍事に代わって、警察の「監視・取締り(policing)」と「監獄(prison)」とが固く手を結び、綿作は刑務所労働に置換されている。きわめて巧妙かつ「巨大で複雑なシステム」によって確保された囚人労働力は、アメリカ企業に莫大な収益をもたらす一方で、〈現代版奴隷制〉としか呼びようがない、新たな搾取を生み出している(坂上「警察や刑務所は、私たちの安全を守れるか?」)。

1970年代以降、アメリカでは刑務所の建設と運営が民間の営利企業に開かれ、利権まみれのビジネスと化した。刑務所を運営する企業は政府からの補助金に飽き足らず、囚人労働力で収益を上げようと、警察・司法と結託し、受刑者数の増加を試みる。その結果、受刑者の数は従来の500%にまで膨張した。

肝心なのは、その内訳と逮捕・収監に至るプロセスである。黒人・ラティーノ市民は全米人口の約25%にもかかわらず、囚人の約59%を占めるに至り、「公的扶助は何重にも刑事司法制度に組み込まれることになった」(土屋「刑罰国家と『福祉』の解体」)。実際、警察は法的手続きを経ずに福祉受給者の個人情報を得られるようになり、低所得者向けの食料費支援を管轄する事務所(Food Stamp)ではおとり捜査さえ行われていたことが明らかになっている。

先に引用したコーツが「黒人のでたらめな拘留」と呼ぶ手法が、「レイシャル・プロファイリング(racial profiling)」である。骨の髄までレイシズムを染みこませた「法的権威と制度的支配」は、黒人をはじめとする社会的弱者を「監視・取締り」の標的にすえ、決め打ちにかかる。そして、より多くの〈労働力=資産〉を必要とする〈現代版奴隷制=監獄ビジネス〉へと次々に囚人を送り込む。

AP通信の調査報道によれば、ルイジアナ州立刑務所では受刑者が「1時間当たり1ペニー、場合によっては無給で」畜産業に従事し、そこから出荷された牛は地元の牧場主を介して、マクドナルドやウォルマート、カーギルなど巨大企業のサプライチェーンに供給されている。それだけではない。囚人たちの労働において安全性は確保されておらず、「釈放後に役立つスキルを学ばせてもらっていない」と研究者からは批判されている(Mcdowell & Mason. “Prisoners in the US are part of a hidden workforce linked to hundreds of popular food brands”)。

ブルックリンの刑務所建設(NYPL-Degital Collection)

福祉の領域に関しても、アメリカは他の自由主義レジーム諸国と比べて「外れ値(an outliner)」にあり、「基本的な福祉プログラムを有していない」(ガーランド『福祉国家』)。いったん「レイシャル・プロファイリング」のターゲットにされ、収監されたら最後、〈産獄複合体=現代版奴隷制〉の無間地獄を周回し続けることになるのである。
アメリカ社会の格差はいっそう拡大し、〈征服者/強者〉の論理で人為的に掘られた「分断」の溝は深くなるばかりである。双方の「知らないこと」がますます増幅し、両岸に架橋しうる「予期せぬ理路」は、なおも不可視化されつつある。

だからこそ、BLMはその最重要スローガンに「投資-脱投資(invest-divest)」を掲げていたのだ。黒人や社会的弱者の身体を破壊する警察や刑務所・司法への予算を「脱投資」し、彼らの「身体を支える社会」にこそ「投資」をすべきではないか、と。“Black Lives Matter”とは、「自分を愛そう。あなたを愛しているから。私たちの命は重い」の謂いであった(榎本『それで君の声はどこにあるんだ?』)。

自由主義社会の内なる奴隷制

アジア・アフリカ出身者として初めてノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センは、「経済学と倫理学との距離が広がったことで、現代経済学は大幅に力を失った」と述懐する(セン『アマルティア・セン講義 経済学と倫理学』)。「消費、貧困、福祉に関する分析」でノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンは、センの言葉に呼応するかのように、「人の苦しみからお金を生み出すのは間違っている(making money out of human suffering is wrong)」とアメリカの政策を批判し、不平等な富の格差を是正するよう提言する(ケース&ディートン『絶望死のアメリカ』)。

合衆国憲法もまた、その前文で「より完全な統一(a more perfect Union)」のために「一般の福祉を増進する(promote the general Welfare)」とうたう(“Preamble”-Constitution of the United States)。
にもかかわらず、「一般の福祉」を「脱投資」し続けるアメリカの姿は、状況に応じてアップデートを重ねてきた憲法の理念に反している。ましてや、「MAGA(メイク・アメリカ・グレート・アゲイン)」をスローガンに掲げて再び大統領の座に就こうとするのは、過去を美化する歴史修正主義者の愚挙にすぎない。前述したように、アメリカを「グレート」にしたのは、搾取された〈労働力=資産〉としての黒人奴隷であり、白く輝くホワイトハウスを建てたのも「黒い労働者たち(Black hands)」だったのだから(ホワイトヘッド『地下鉄道』)。

黒人教会(1859年、NYPL-Degital Collection)

東欧近世・近代史研究者の中澤達哉は、「アフリカ系の奴隷化、強制労働なしには、西欧主権国家の統合もその近代性や資本主義も実現できなかった」とする政治学者フィン・ステプタットの主張を紹介し、奴隷解放の動向を「剥き出しの市場原理に立つ経済的自由主義があたかも倫理性を纏うかのように国家に介入した最初の成功例」だと喝破する。そして、中・東欧における「ヨーロッパの内なる奴隷制」について論を展開する(中澤「一八四八年革命論」)。

結局のところ、〈被征服者/弱者〉の倫理を顧みず、経済的自由に猛進する限り、いくら「外なる」奴隷制や植民地を廃止したところで状況は変わらない。資本の無限増殖を志向する自由主義は、軍事力で「外なる」奴隷を強制連行するのと引き替えに、警察の暴力や司法の乱用によって「内なる」弱者を標的に定める。そうして彼らを「内なる」無間地獄に送り込むことで、資本主義の仮面をかぶった〈現代版奴隷制〉を捏造するのである。

アメリカのレジリエンスとしてのZ世代

〈現代版奴隷制〉が「知らないこと」にされ、「理路」を見出せずにいるアメリカに希望はあるのか。なおもレジリエンスが残されているとすれば、奈辺にあるのだろうか。
コーツは「レイシャル・プロファイリング」によって「僕らのやさしさ(our softness)」が失われ、「僕らの微笑む権利(our right to smile)」さえ奪われているのだと嘆きつつも、作中で息子に語りかける。

なんとかなるさと請け合ってやれなくてすまない。守ってやれなくてすまない。だけど、そこまですまないとは思ってないんだ。脆弱(your very vulnerability)であるからこそ、お前は人生の意義(the meaning of life)に近づけると思う僕もいるんだよ。

タナハシ・コーツ、前掲書、124頁

我々は壮健で生命力がみなぎっているときほど、足下を見ない。下を向く暇があったら、前に向かって一目散に疾駆する。ましてや、道路や橋などの社会インフラが信頼に足る状態であれば、ランナーズハイに酔いながら、前方だけを見てひたすら走り続ける。

しかし、ふらふらとめまいを覚えるほどに身体が衰弱すると、さすがに足下に気を払うようになる。ときに進行方向を一瞥し、一歩いっぽ、足下を確認しながら歩みを進める。もし社会インフラが悪化していれば、ときに立ち止まりつつ、“What are you standing on?”と自問しながら、歩むしかない。

この世界には、お互いの足下を見合いながら〈被征服者/弱者〉の倫理を貫こうとした人々にしか「知らないこと」がまちがいなく存在する。と同時に、〈征服者/強者〉の足下で不可視化されてきた人々にしか見出しえない「理路」がそこかしこに開かれている。アメリカがそれらを見出しうる好機は、いまをおいてほかにないのではないだろうか。

たとえば、Z世代(1997-2012年生まれ)をはじめとするアメリカの若年層は、〈征服者/強者〉としてよりも、脆弱性をさらけ出す自国の姿とずっと同期しながら生きてきた。対外的には「戦争の膠着、肥大化する戦争関連費用に苦しみ、対内的には、広がる貧富の格差に引き裂かれ」、「蔓延するレイシズム、拡大する貧富の差、脆弱な社会保障」というアメリカの現実に対峙せざるを得ない世代である(三牧「エマ・ゴンザレス」)。

しかし、だからこそ、アメリカ特有の「例外主義(exceptionalism)」に縛られることなく、〈被征服者/弱者〉としての倫理を模索することが可能となる。彼らZ世代は、対内的にはBLMの中心となって運動を展開し、対外的には「アメリカの偽善とダブル・スタンダード」を鋭く批判してきた(三牧『Z世代のアメリカ』)。ジェノサイドを止められないバイデンが彼らの非難にさらされ、BLMがパレスチナとの連帯を前面に打ち出すのは至極当然の「理路」であろう。

パレスチナで「アメリカ」が反復されている

「知らないこと」から「予期せぬ理路」を拡張しているのは、Z世代に限らない。全米アフリカ系アメリカ人聖職者ネットワークの共同議長バーバラ・ウィリアムズ=スキナーは「黒人聖職者は、戦争、軍事主義、貧困、レイシズムのすべてがつながっていることを目の当たりにしてきた」と語り、次のように続ける。「しかし、イスラエル・ガザ戦争は、イランやアフガニスタンとは異なり、公民権運動以来見たことのないような、黒人の根深い怒り(deep-seated angst among Black people)を呼び起こした」(King. “Biden peril in Black churches”)。

〈パレスチナ/イスラエル〉の特異性は「入植者たちが頂点に立ったという点」にある。被植民地が国民国家として独立するにあたり、たいていは入植者たちが植民地からの逃亡を図る。アルジェリア然り、インドネシア然り、コンゴ然り。その背景には、コーツが告白するように、自分たちが犯してきた暴挙への復讐が行われるに違いないという「意志と恐怖」が存在する。
しかし、〈パレスチナ/イスラエル〉は違った。1947年の内戦を機に、ユダヤ人入植者たちの分離独立がアラブ人住民よりも重視される方向で進められた。「ユダヤ人勢力は、広い領域にわたって民族浄化を実行することで戦禍を確実なものにした」(ケネディ『脱植民地化』)。

この長きにわたるプロセスを看過し続けたのが、アメリカを中心とする西欧諸国である。決して忘れてならないのは、第4回でもふれたように、アメリカ自体の成り立ちが「セトラー・コロニアリズム」に依拠していることであろう。
誤解を恐れずにいえば、イスラエルによるジェノサイドは「帝国」アメリカの反復にすぎない。ウィリアムズ=スキナーが表明する「黒人の根深い怒り」とは、制度的暴力によって〈被征服者/弱者〉から搾取・収奪を繰り返し、その蛮行自体を「知らないこと」として足下に葬り去ってきたアメリカそのものへの怒りでもある。

2023年10月7日、イスラエルによる攻撃の後、黒煙と炎を上げるガザ地区の高層ビル(Wikimedia)

〈征服者/強者〉の論理に立ち向かう

〈Z世代/BLM/黒人聖職者たち〉は、〈征服者/強者〉によって不可視化されてきた人々にしか見出しえない「理路」をパレスチナに開くことで、確かなグローバル・ネットワークを築きつつある。
〈Un-united States of America/アメリカ非合衆国〉として空中分解しつつあるアメリカが、いまだ結実したことがない〈United States of America/アメリカ合衆国〉を実現することがあるとすれば、それは「帝国」としての己の歴史と向き合い、暴力と資本主義からなる「複合体」を解体するときであろう。そのとき、過去との対峙と「複合体」解体運動の中心を担うのは、「知らないこと」を手探りしあってきた〈Z世代/BLM/黒人聖職者たち〉にちがいない

もちろん、〈征服者/強者〉の論理に立ち向かわねばならないのは、アメリカに限らない。此岸に住む我々もまた、「知らないこと」に耳を寄せながら、彼らが切り拓いた「理路」を辿る必要があろう。此の国を含め、世界各国が脆弱性をさらし、国際的な社会インフラさえ弱化の一途をたどりつつあるいまだから、ときにその場にたたずんで、足下を凝視しながら「知らないこと」に自分を開いたり、「予期せぬ理路」を探索したりすることができるはずだ。自他が弱っているときこそ、めぐりあえる倫理がある——“What are you standing on?”

苦役に明け暮れる南部の奴隷たち(奴隷化された人々)(NYPL-Degital Collection)


〈引用・参考文献〉

Constitution Annotated. “Preamble-Constitution of the United States

石川敬史「「連邦の維持」と奴隷制度——初期アメリカの視点から」
坂上香「警察や刑務所は、私たちの安全を守れるか?——COVID-19パンデミック×BLM時代におけるアンジェラ・デイヴィスの問い」
土屋和代「刑罰国家と『福祉』の解体——『投資・脱投資』が問うもの」
『現代思想10月臨時増刊号 第48巻第13号』青土社

貴堂嘉之「移民の世紀」
中澤達哉「一八四八年革命論」
『国民国家と帝国 19世紀』岩波書店

三牧聖子「エマ・ゴンザレス」和泉真澄、坂下史子、土屋和代、三牧聖子、吉原真里『私たちが声を上げるとき——アメリカを変えた10の問い』集英社

〈プロフィール〉
白岩英樹
(しらいわ・ひでき)
1976年、福島県生まれ。高知県立大学文化学部准教授。専門は<比較文学/芸術/思想>。博士(芸術文化学)。AP通信、東京都市大学、国際医療福祉大学等を経て、2020年より高知市に在住。著書に『講義 アメリカの思想と文学――分断を乗り越える「声」を聴く』(白水社)、共著に『ユニバーサル文学談義』(作品社)、翻訳書に『シャーウッド・アンダーソン全詩集』(作品社)などがある。

◉この連載は、白岩英樹さん(アメリカ文学者)、光嶋裕介さん(建築家)、青木真兵さん(歴史家・人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター)によるリレー企画です。次のバトンが誰に渡るのか、どうぞお楽しみに!
◉お3方が出会うきっかけとなったこちらの本も、ぜひあわせてお読みください。

◉アメリカ開拓時代からの歴史や人々の暮らしの実際がもっと知りたい方は、こちらもぜひ!

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