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三島由紀夫「仮面の告白」とフレディマーキュリー

仮面の告白は三島由紀夫24歳で刊行された半自伝的小説。
幼年時代
「王子たちのあのタイツを穿いた露わな身装(略)を空想することが、どうしてそのように快いのか」
「音楽映画をみに(原文まま)行った。袖口に長いレエスをひるがえした宮廷服が忘れられなかった」
「クレオパトラ(略)活動写真(略)私は耽奇の目で眺めていた。(略)瞼全体にアイ・シャドウを塗った沈鬱な目つきを。その着ていた超自然な衣装を」
「扮装慾は(略)十歳ごろまで顕著につづいた」
「そこには(略)がいた。私の目には誰も見えなかった。私の熱狂は、自分が扮した(略)が多くの目にさらされているという意識に集中され」
「私は一人の男の子であることを、言わず語らずのうちに要求されていた。心に染まぬ演技が始まった」
17歳
「あこがれていた髪を伸ばすというのぞみ」
19歳
「ピアノの音が、彼の妹に対して私をぎこちない人間にしてしまった」(園子と出会う。モデルになった女性は邦子。戦争中)
「私には異性の肉感についてまったく定見というものが欠けていた」
21歳
「私の直感が園子の中にだけは別のものを認めさせる」
「園子への心の一途な傾倒と、それとは何の関わりもない常軌を逸した肉の欲情」
「私はただ生まれ変わりたかった」
「園子が或る男と見合いをして(略)結婚した」
22歳
「園子に逢いたいという心持ちは神かけて本当である。しかしそれに些かの肉の欲望もない」
23歳
「何事もなく逢い何事もなく別れるような機会をいくつか持った」
「園子のことを考えない日はなかったし、逢うたびごとに静かな幸福を享けた」
「こうした関係にあって、私はしかも、私にしかわからない不徳のよろこびをも抜け目なく味わっていた」
「私たちはお互いに手をさしのべて何ものかを支えていた」

「」内は原文引用、フレディマーキュリーを彷彿させる部分です。他にもたくさんあります。
 ノーベル賞選考委員会にアドバイスを求められたドナルドキーン氏は1963年、「日本の年功序列に配慮し」谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、の順で回答したそうですが(谷崎は選考過程で他界)、本心、三島が一番、と考えていたと後年、NHKに答えています。
凡庸な私もそう思います。

 上の写真は新潮社著者プロフィールからです。ジョン・ディーコンに似ていると思いませんか。

 三島由紀夫とジョン・ディーコンの謙虚エピソード;

 三島由紀夫はノーベル賞推薦文章を谷崎(58年)、川端(61年)、それぞれの為に書きました。45歳で(フレディと同じ年齢・・)割腹自殺する月まで国民年金保険料を支払っていました。
don't do suicide, don't do it, don't do it
 ジョン・ディーコンは学歴、演奏技術、世界レベル作曲能力、the4人の数億というお金の出入り管理能力、ブライアンメイたらしめる手先の起用さ(ディーキーアンプ)にもかかわらずゴリラの被り物をかぶりゴリラの動きで「いいとも」に出ました。


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