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noteを始めて思ったこと

間違っても、巧いこと書いてやろう、とか、人の度肝を抜くようなことを書いてやろう、とか、これまで誰も書かなかった、新しいことを書いてやろう、とか、決して思ってはなりません。日本語で許された最小限度の単純な言葉をもって、いま、机の前に坐っている瞬間に、あなたの眼に見えたこと、あなたの耳に聞こえたこと、あなたの心に浮かんだことを書くのです。

私のことだま漂流記

グサッと刺さったのが分かった。この一節が刺さりに刺さった。
最近、山田詠美著「私のことだま漂流記」を読んでいる。
この一節は宇野千代さんの言葉。小説家を目指していた頃の山田詠美さんが感銘を受けた文章作法とのこと。
私は小説家を目指している訳ではないけれど、こうしてnoteに自分の書いた文章を公開している身として、思うところがあった。
この一節を忘れたくなくて、すかさずメモを取った。

noteに綴っている文章は、自分が思うこと、考えたこと、訴えたいことなど、全部自分の中から出てきたこと。
だけど、それを表現する技術が自分には足りないと感じることが多い。
虚栄心からか、なんかカッコイイ響きの難しい言葉を使いたくなる、格好つけたくなる。
だけど結局自分ぽく無くて、文章の中でその表現だけがポツンと浮いてしまう。そして、伝えたい当初の方向とは違う方向へ文章が動いて行ってしまい書き直す。そういうこともしばしば。

誰かに読んでほしい文章、伝えたい文章をまず最初に読むのは私自身だ。
そしてその文章を書いているのも自分。
結局は?というか、いつだって自分に伝えたいこと、共感してほしいことを書いている。
それなのに、自分が使い慣れない言葉を使うのはニュアンスが伝わりずらくなるし、読みずらいし、感覚的に合わないと感じるのも当然。

私の場合、noteで自分が書いている文章は、自分が考えたことを客観視して自分へ伝える手段だということが最近分かった。
だから、自分の中から出てくる想いを今の自分が使いこなせる言葉や表現方法を使って形に出来れば十分なんだ。
格好つけたくなる気持ちはある。仕方ない。今までそういう生き方をしてきたから。でもその気持ちはとりあえずそのままにしておく。
自分以上の自分、本来の自分以上の自分になることはしたくない。
そういう風に今は思っているようだ。
見栄をはらないで、やっていきたい。
肩の力を抜いて。ゆるゆると。




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