見出し画像

マノーリンはかもめの夢をみる(4/10)

 一学期の給食が終わった週末は、もう終業式だった。
 リョウヘイたちは、いつもと変わらず三人で、海沿いの県道を歩いて帰った。そしていつものように、通知表やら上履きやらを詰め込んだ鞄を放り出して、浜に降りた。
 浜へ降りるスロープから、いくつかの轍が伸びている。それは、もうすっかり出来上がった海の家の方へ続いていて、駐められた軽トラから冷蔵庫やオーディオ機材が搬入されているところだ。海にはもう、遊泳区域を示すバリアが張られていた。こうやって海水浴場の形が出来上がってしまうともう、町の子どももしばらくは、余所からやってきた海水浴客と同じように、遊泳区域の中でしか泳げない。
 浜にはもう、気の早い学生風の海水浴客がいる。ひょっとしたら泊まり込みで働きに来ている、海の家のアルバイトかもしれない。夏の海に似つかわしくない制服姿の監視員もすでにいる。彼らの姿はまばらだが、見慣れない人がいるとやはり、いつもの浜がいつもの浜でないようだ。
 熱い砂を蹴り上げて歩きながら、トモキが言った。
「リョウヘイ、おまえバカだろ」
 リョウヘイは「何が?」というように首をかしげ、リュウは不思議そうにトモキを見上げた。
「先生に、『夏休みの目標を宣言しましょう』って訊かれて、『灯台まで泳ぎます』って応えるのって、どうなんだよ。そんな目標、ダメに決まってるだろう」
「何がダメなんだよ」
「だって・・・当たり前だろ。先生も困ってた」
 リョウヘイは担任のガッキーの顔を思い浮かべた。広い額の上に固そうな硬そうな髪をのせた細面のガッキーは、リョウヘイがそう言った時、苦笑いをしていた。そして、リョウヘイの宣言を責めもしなければ褒めもせず、「あなたは泳ぎが得意だからね」とだけコメントした。
 リョウヘイは、海を見た。
「おい、泳いでいこうぜ」
 リョウヘイが駆け出すと、リュウがわっと叫んで追いかける。トモキは、少し遅れてそれに続いた。
 服を着たまま砂浜を駆けていく三人の小学生の背中を、監視員のサングラスが睨んでいた。三人は、まっしぐらに遊泳区域の海に入っていく。海では、腰まで潮水につかった学生風のグループがスイカのプリントをしたビーチボールを投げ合って遊んでいて、そのあたりまでくると三人は、ざぶんと波に身を投げ、泳ぎ始めた。
 リョウヘイとトモキは、ほとんど同時にバリアまで泳いだ。少し遅れてリュウがバリアにとりつく。遊泳区域は狭い。リョウヘイは、今度は浜の方へ泳いだ。トモキとリュウもついていく。足のつくところまで来るとリョウヘイはすぐに海の方へターンした。トモキとリュウは、やはりそれを追った。
 そういうことを何度か繰り返し、やがて飽きて、リョウヘイはバリアにとりつき、オレンジ色の浮きを沈めてその上に腰掛けた。少し離れて、トモキとリュウも同じように浮きに座る。
 バリアで防波堤の内側に区切られた遊泳区域は、リョウヘイたちを満足させなかった。狭い。リョウヘイは、何度バリアと浜を往復しても、泳いだような気になれなかった。
 浜の方を向いて座ると、高いはしご椅子に腰掛けた監視員が小さく見えた。監視員の方が高い位置のはずなのに、視線はほとんど水平なのが不思議だった。そして、振り返ると、防波堤の切れ目からちょうど岬の先にたつ灯台が見えた。灯台のフレネルが、ちょうどよく見える位置で止まっている。そのフレネルも、監視員よりはいくらか角度を感じるとはいえ、リョウヘイにはほとんど水平の高さであるように感じられた。
「なあ、灯台まで本当に泳いでみようか」
「本気、リョウヘイにいちゃん?」
 冗談めかして言ってみて、リョウヘイは二人の顔色をうかがった。リュウはばちゃばちゃと脚で波を蹴って、きらきらした飛沫を散らしている。トモキの方はというと、むっつりと黙ったまま、そっぽを向いている。
 リョウヘイは、ほとんど真上から照りつけてくる太陽が濡れた髪と肌を乾かしていくのを感じていた。頬のあたりが潮っぽくべたついて、不快だ。
「じゃあさ、防波堤までにしよう」
 トモキは、やはり黙ったまま、監視員と防波堤を交互に見比べた。そして、「俺は行かない」と冷たい声で言った。
「行くなら、一人で行けばいい。でも、もし本当に行ったら、先生に言うぞ」
 リョウヘイは、心臓がぎゅっと縮むような気がした。そして同時に、頭の中で光がぱちんとはじけるのを感じた。リョウヘイは、バリアの浮きをぐっと沈めると、脚で踏みつけて海の中に立ちあがる。そして、腰のあたりまで海水につかりながら、灯台の方をじっと睨む。高い太陽が垂直に照らす海は、青黒くうねっていた。昼網の船が出払った頃合いの海は、波もなく静かに凪ぎわたっている。こんな海なら、どこまでだって泳げそうな気がした。
 そして気がつけばリョウヘイは、浜とは反対の方向にざぶんと身を投げていた。クロールで海面を掻き上げる水の音の向こうに、悲鳴のようなリュウのはやし声が聞こえたような気がしたが、もう分からない。こうなったからには泳ぐしかないと、ろくに方向も確かめずに、リョウヘイは面かぶったまま一心に手足を動かした。
 いつも防波堤まで泳いでいる感覚と、水をつかむ手のひらの感覚から、そろそろ防波堤につく頃だと思って顔をあげたとたん、リョウヘイの顔に高い波がぶつかった。
「バカやろう、何やってやがる、頭かち割れンぞ!」
 あやうく溺れかかったリョウヘイの頭上に、怒声が降ってきた。あっぷあっぷしながら声のする方を見上げると、昼網の漁船が防波堤の切り欠きを通って今帰ってきたところで、顔見知りの漁師がリョウヘイを見下ろしていた。漁師はリョウヘイの顔を見ると、「あ、漁協の、あの息子の」と目を剥いた。
「誰に断って、遊泳区域の外に出やがった。今は町の子どもも、ここを泳いじゃいかん。知ってるだろうが。さっさと浜に戻れ」
 リョウヘイは、防波堤に向かって泳いできたつもりが、どうやら方向がそれて外海の方へ泳いでしまったらしかった。
 漁船は急には止まれず、めいいっぱい梶をきってリョウヘイを避けながら船だまりの方へ滑っていった。リョウヘイは胸がどきどきして、しばらくはそのまま、綱の切れた浮標のように漂っていた。防波堤の切れ目からは、灯台が小さく小さく見えた。
 このことは、あの漁師が後で母に告げ口をしたのだろう、リョウヘイは夕食の前に母に叱られた。父も厳しい顔をしていた。学校から呼び出しはなかったので、トモキは先生には告げ口しなかったのかもしれない。母は一通りあれこれ言い終えると、話に区切りを付けるために、仏飯器に盛った白飯を仏壇に供えるようリョウヘイに言いつけた。
 リョウヘイは暗い仏間に行って、電気も点けず、手探りで仏飯器を経卓に供えると、鈴を打って手を合わせた。リョウヘイは念仏しながら心の中で「今日は死にかけたよ」とヤゴさんに報告すると、鈴の残響の中にヤゴさんが「ああ」とうなり声で返事をする声を聞いたような気がした。
 その夜リョウヘイは、今日の出来事を何度も思い返した。そして、身のうちから湧いてくる不思議な感情に戸惑っていた。
 両親に叱られたことは何とも思わなかった。漁船にぶつかっていたら死んでいたかもしれないということも別に恐ろしくはなかった。しかし、記憶のリールが巻き戻って、漁師に怒鳴られたシーンまで来ると、波の山なみの向こうに見た、浜から見るより小さな灯台の映像とともに、胸の震えがやってきた。あの灯台は、あんなに遠かっただろうか? 湾の町ならどこからでも見える、あの身近な灯台は、あんなに小さかっただろうか? そう思った時、リョウヘイは自分の体が小さく縮んで、かもめのくちばしで拾われ、ひとのみにされるところが想像された。すると一瞬、胸の震えが最大となり、イメージはブラックアウトして、また三人で海に駆け出すところから記憶の再生は繰り返されるのだった。
 夜が更けて、リョウヘイが眠りに落ちようとするその最後の一瞬、リョウヘイはやっとその胸の震えは恐怖だと気づいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?