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マノーリンはかもめの夢をみる(5/10)

 あんなことがあってから、リョウヘイは海で泳ぐのをやめてしまった。叱られたのが堪えたというのではない。ただ、きまりを破ってみたということだけでもう、灯台まで泳いでみたいという熱がほとんど冷めてしまったのだった。
 だから、漁師に怒鳴られた次の日からは夏休みだというのに、リョウヘイは海水浴場はもちろん、隣町の町営プールにも行く気になれなかった。
 リョウヘイの夏休みは退屈だった。役所勤めの父と漁協のパート員である母は、夏休みを口実にどこかへ旅行してみようかという発想をもたない。それどころか、海水浴場が開いている間は役所も漁協もあれこれ忙しいと言って、カレンダー通りの盆休みすらとらない。
 ならばトモキやリュウと遊んでいればいいのだが、中学受験をするというトモキは、今年の夏はやはり忙しく、玄関先で呼んでみても母親が出てきて申し訳なさそうに頭を下げるばかりだし、リュウは一家で東京近郊の親戚の家に夏の間じゅう泊まりで遊びに行っているらしくて家はしんとしていた。確か、夏休みの真ん中にある登校日にも帰ってこず、二学期が始まるまで東京にいるのだとリュウはいつだったか自慢していた。
 リョウヘイは朝起きると、海の家が店開きするより前に浜に出て、冷たい夜気を吸い込んだ砂の上を歩いたり、海に向かって貝殻や石を投げたりした。海には入らなかった。しかし、人気のない、まだ明け切らぬ浜をひとりで歩くのは心地よかった。そして、歩いたり貝や石を投げたりするのに飽きると、流木に腰掛けて、まだ灯りのともっている灯台を眺めた。
 灯台のフレネルから放たれる虹色の光線は、青黒い朝の海の風景を悠然と薙いでいる。リョウヘイはその美しい虹の道が空を駆け巡るのをいつまでも見守った。そのうちに空が白んできて、東の方から太陽が昇りだすと、灯台の灯りは徐々に暁光に溶けていく。やがて太陽が姿を現し、フレネルが沈黙すると、いつの間にか灯台の方からリョウヘイの足もとに向かって、一本の光の道がまっすぐにひかれているのだった。
 誰もリョウヘイを咎める者のない早朝である。今こそ泳ぎ出せば誰にも見つからずに灯台まで泳いでいけるかもしれないのに、リョウヘイはなぜかそれが恐かった。前のように、不意に現れた漁船から泳ぐことを咎められるのを恐れたわけではなく、もし灯台まで泳ぎきることができなかったらという不安が恐ろしいのだった。
 灯台まで泳ぎ着けないことの、一体何が恐ろしいというのだろう。リョウヘイは波の音を聞きながら考え続けた。灯台にはいつものように、一羽のかもめがまとわりついて、その黒いシルエットは、急上昇したり旋回下降したりを繰り返している。その動きは、暁光に染まった東の空を背景にしてくっきりと見えた。リョウヘイの目には、かもめの高度が頂点に達し、そこから重力に従って運動を反転する時の、尾びれの先端の震えまで見えるようだ。以前なら、あのかもめの真下まで泳いでいって、水面から飛び上がって下降してきたかもめに触れることだって容易であるような気がしていたというのに、今はもう、自分にはその力がないような気がしてならず、そのように考えが変わった理由さえも分からなかった。
 それはともかくとして、もしまた遊泳区域の外で泳いでいるのが見つかったとしたら、その時はだたでは済まされないだろう。自覚はなかったが案外、自分はそんな単純なことを恐れているのかもしれないと、リョウヘイは決めた。ぐずぐずと悩むのは、リョウヘイの性分にあわなかった。
 日が上って、海の家から音楽が流れだし、海水浴客の姿が浜にちらほらし始めると、リョウヘイは朝食を摂りに家に帰った。帰宅すると母はリョウヘイの髪や服が濡れていないことを確かめてから、朝食を食卓に並べた。そして、何か言いたそうにしながら父とともに出勤していった。
 リョウヘイは、午前のうちは夏休みの宿題をしたり学校の図書室や隣町の図書館から借りてきた本を読んだりした。開け放った窓からは潮の香りとともに、有線の音楽の音が聞こえてくる。この音が鳴っている間は、浜には出られない。別に出たっていいのだが、余所者だらけの海水浴場がリョウヘイは嫌いだった。
 午後には時々、暇を持て余しているクラスメイトが遊びに来た。その時は、仏間でカードゲームをしたり狭い縁側の通路でキャッチボールをしたりした。キャッチボールをした時には、狙いをはずしたボールが二階の父の書斎の窓に当たってガラスを割りそうになり冷や汗をかいた。なので、縁側で遊ぶのはそれ以来やめた。
 とりわけ暑さの酷かった八月の最初の週の午後には、遊びに来るクラスメイトすらなく、読書をする気力もわかず、テレビもネットもつまらなく、かといってやはり海に出る気にもならなかった。普段なら夏でも涼しい仏間の畳さえ汗で濡れたのが不快で、リョウヘイは玄関に座り、夏の自由課題の水彩画を描いた。玄関の扉を全部開け放って土間の右の端あたりに腰を下ろすと、門柱ぎりぎりのところに灯台が見える。リョウヘイは学校から貸し出された画板を首にかけて、灯台の絵を描いた。
 目の前にある灯台は、真昼の陽光を受けてハレーションを起こしたように白い灯台だが、リョウヘイは鉛筆で灯台と積乱雲の輪郭だけなぞりとると、早朝の散歩で見る海の風景のように、背景を桔梗色に塗り、フレネルからは虹色の光線を噴き出させた。
 リョウヘイは、積乱雲の頂上あたりにはかもめを一羽描いた。もし早朝の風景を描いているのであれば、そのかもめはシルエットを黒く塗りつぶすべきだったかもしれないが、リョウヘイはかもめを白い絵の具で塗ってしまった。かもめだけではない。ぼんやりしていたせいか、リョウヘイは灯台と積乱雲も、目の前の昼の光景そのままに、白でくっきりと描いてしまった。おかげで出来上がった絵は、朝の風景と昼の風景の折衷した、合成写真のようになってしまったが、不思議としっくりきているような感じがしたので、リョウヘイはその絵を直さずにそのまま学校に持っていくことにした。

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