見出し画像

マノーリンはかもめの夢をみる(6/10)

 登校日は朝から雨だった。
 凪ぎ渡った海に垂直に降り落ちる雨は霧を呼び、街を灰色のカーテンで包んでいた。防波堤の輪郭はもうすでに淡く、灯台などいくら目を懲らしても見えないような朝には、さすがに海水浴客の姿も浜に見えなかった。
 リョウヘイは、いつものようにトモキの家に寄って、一緒に登校した。久しぶりに顔を合わせたトモキは、青白い顔をして、ぎこちなく「おはよう」と言った。トモキがそんな様子なので、リョウヘイの方も何だか居心地が悪く、挨拶を返す声も小さくなってしまった。
 雨のせいで薄暗い県道を、傘を差したリョウヘイとトモキは無言で歩いた。傘のせいで、ふたりの距離は遠かった。傘と雨のカプセルに閉じ込められた二人は、何を話せばいいのか分からないようであった。そして、白く濁った霧の中へと続いていく通学路は、どこにもたどりつかない道のようだった。そして、やっと学校にたどり着き、賑やかな教室に入ると、トモキは塾仲間のグループの方へ吸い込まれていった。
 リョウヘイハというと、誰とも話す気になれず、学級文庫の本棚の脇につったって、ページをパラパラとめくって過ごした。学級文庫は、以前は中学校に国語教師として勤務していたガッキーの私物で、小学生が読むには少し難しい本もあった。たとえば、「高村光太郎詩集」や「芥川龍之介全集」なんかは、いくら本好きのリョウヘイにもちょっと歯が立たない。
 しかし、かもめの話を納めた銀色の表紙の文庫本や宮沢賢治の童話はリョウヘイのお気に入りだった。リョウヘイが学級文庫を読んでいるとガッキーは、リョウヘイが何を読んでいるのかとのぞき込んで尋ねてくることがある。そして、これが読めるならもうこっちも読めると難しそうな文庫本の方を指さして笑う。だからリョウヘイは、「高村光太郎詩集」も時々開いて見るのだが、今のところまだ、高村光太郎という人が何を言いたいのかを理解できたことはない。
 チャイムが鳴る少し前に、ガッキーは教室にやってきた。すると、あちこちに散らばっていたクラスメイトは、ご破算をしたそろばんの珠のように、さっと自席に戻った。
 クラスでの挨拶が済むと健康観察があり、雨のためにテレビ放送となった学校朝会を見た。そして朝会が済むとガッキーは、もう済んでいる宿題があれば回収しますと言った。
 ガッキーはまず、計算と漢字の書き取りの課題を集めた。受験組を中心に、クラスの半分以上の生徒がもう済ませたらしくて、計算と漢字の書き取りの課題を印刷した再生紙の束がガッキーの手元に集まり、山になった。次にガッキーは、読書感想文の課題を求めたが、これはさっきよりもずっと少なかった。読書感想文を提出した者の中にはトモキもいて、トモキは計算と漢字の書き取りの課題もすでに提出していた。
 リョウヘイは計算も漢字の書き取りも読書感想文も出さなかったが、図工の課題の提出を求められた時に立ち上がった生徒はリョウヘイひとりだった。リョウヘイが丸めて持ってきた画用紙を広げながら席の間を歩いて行くと、「マジで?」「何描いたの?」「見せろよ」とクラスメイトの声がした。リョウヘイはその声を無視してまっすぐ教卓の方へと進み、絵がガッキーにだけ見えるようにして提出した。
 受け取ったガッキーは、少しの間、リョウヘイの絵を眺めてから、感心したように言った。
「素敵な絵だ。みんなに見せてもいいかな?」
 リョウヘイは戸惑ったが、どうせ夏休みが終われば教室に飾られて人目に触れるのだからどうでもいいと思って、肯いた。
 ガッキーがリョウヘイの絵を高く掲げてクラスメイトたちのいる方に向けると、おおっとどよめきがおこった。くすっと笑う声もあったが、「すっげー」と賞賛する声もあった。笑ったのは受験組の誰かで、賞賛の声を上げたのは少年野球でピッチャーをしている元気のいい奴だった。リョウヘイは、見せていいと承諾したのになんとなく恥ずかしく、うつむいてクラスメイトたちの声をやり過ごした。しかし、トモキがどんな顔をしているのか気になって、うつむいたまま上目遣いでそちらに視線をやると、トモキはリョウヘイの絵を見ずに、窓の外の雨をじっと見つめていた。雨の中、校庭のサルスベリの木に花が咲いているのが見えた。
「すごいね、先生はとてもいい絵だと思います。先生も時々、灯台の光がこんな風に見えると感じることがありますよ。目に見えている光は、もちろんこんな風じゃないけど、心の目で見るっていうのかな、そう、心の目ではこんな虹色の光が見えて、その心の目で見た事を心で見たままに描けるのはとても素敵なことだと思います。だって、本当の目では見えていないことを心の目で見ることは、簡単な事ではないし、仮に見えたとしても、それを感じたままに描くことはとても難しいからです」
 ガッキーがそう話すと、クラスはしんと静まりかえった。雨の音が急に大きくなった。ガッキーは静かな静かなクラスを一通り見回してから、「さて、みんなはどんな絵を描いてくるのかな? 楽しみにしているよ」と言って笑顔を見せた。すると、また雨の音が遠のいて、「俺、何描こうかなあ」とか「描けば、何でもいいんだよ」とかいうささやき声でクラスはざわざわした。
 それからガッキーは、夏休み後半の過ごし方について簡単ないつも通りの注意を話した。本当ならこの後、二時間ほど総合の授業があるはずだったのだが、雨がひどくなってきて警報が出そうだということで、児童は下校することになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?