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マノーリンはかもめの夢をみる(7/10)

 登校日の翌日からは、また頭上に青空が広がった。
 世間は盆休みを迎えている。すると、海水浴場はいよいよ芋を洗う騒ぎだ。狭い四角に区切った海の中にひしめく人間を、かもめは不思議なものでも見るように見下ろしている。なぜあのように四角に群れて過ごす習慣を人間がもっているのか、かもめには理解できない。
 かもめはいつものように、群れから逃れて積乱雲の峰へと駆け上がっていく。すると、見下ろすカモメの仲間たちの群れが、漁船を中心にした白い黴のコロニーのように見える。かもめには、仲間たちがなぜあのように食うことだけにこだわるのか、やはり理解できない。
 案外、人間もカモメも、似たようなものなのかも知れない。かもめはそんなことを考えつつ、むくむくとふくれあがっていく積乱雲のいただきに触れようと、急上昇と急降下を繰り返す。
 湾の町の西の端にある家では、仏間でリョウヘイが冷たい畳に転がって本を読んでいる。読んでいるのは、隣町の図書館で借りてきた本だ。一度読み終えて、二度目を読み返し終えるところである。
 仏壇には、ずっとホオズキが供えられている。そのオレンジの塊が、薄暗がりの中であやしい輝きを放っているように見える。ホオズキには先祖の霊が宿るのだそうだ。ひょっとしたらあのホオズキがぼんやり光るのは、祖父の霊のせいかもしれないが、本当にそうなのかどうかはリョウヘイにはわからない。
 さっき、リョウヘイの食事を用意しに戻ってきた母は、漁協の昼休みが終わる前に仕事に戻るために出て行ったところだった。母は、「トモキくんみたいに受験はしないにしても、あんたもちょっとは勉強しなさいよ。中学にあがったら授業難しくなるんだから、今のうちにしっかり基礎を固めておきなさい」と捨て台詞を残していった。リョウヘイはその捨て台詞を丸めて窓の外に捨てた。今頃、残暑の日差しを浴びて干からびていることだろう。勉強ならちゃんとしている。夏休みの宿題だって、もう絵は提出した。算数だの漢字の書き取りだのは、後回しにしているだけである。休み明けに仕上げられるように、いつそれに手をつければいいかは、計算済みだ。とやかく言われる筋合いはなかった。
 それでも、全然手をつけないでいるとまた母がやかましいので、リョウヘイは文庫本を閉じると、二階の自分の部屋にあがった。南向きの部屋は、炊飯器の中のような蒸し暑さだ。たちまち額に汗が噴き出す。それでもリョウヘイは、汗でプリントを濡らしながら、算数の課題を一枚だけ片付けた。嫌いなクーラーはつけなかった。
 暑い。開け放った窓から海を見ると、海水浴場の人混みが見える。その混み合い方を見て、リョウヘイはうんざりする。見ているだけで暑さが募ってくる感じがする。泳げばきっとすっきりするだろう、という考えがリョウヘイの頭をかすめた。しかし、海水浴場で泳ぐ気にはなれない。
 そうだ、ならば町営プールで泳ごう。
 本当は、明日隣町に行って、図書館に寄ってから町営プールに行くつもりだった。クラスメイトともそのつもりで約束していた。両親にもそういう風に話してあった。しかしリョウヘイは、行くなら今だ、と思った。理由はないが、今いかねばならない。クラスメイトとの約束はすっぽかすことになるし、親には黙って隣町に行くことにもなるが、リョウヘイは、今日ひとりで隣町に行こうと、そう決めた。
 図書館へ返す本と水着をリュックに詰めると、隣町へ行って帰ってこられるだけの金を財布に入れて、リョウヘイはバス停に立った。隣町へ無断で行ってはいけないと両親には言われていたけれど、断って行くのと黙って行くのに違いなどあるものか。やがてバスが来る。そしてリョウヘイは、ためらわずにバスへ乗り込む。
 まどろっこしいほどゆっくりと発進したバスは、海沿いの道をとろとろと走った。トンネルを抜けると、また海が見え、バスは地形にあわせたゆるやかなアップダウンを越えていく。バスは、上りは息苦しそうに減速し、下りは軽やかに加速した。海沿いの道には、バラックのような売店がいくつかある以外に建物らしい建物はない。そして、蜜柑の木の生えている崖があり、竹藪で見通しの悪い区間を抜けると、もうそこは隣町だった。
 最初に図書館に寄り、借りている本を返して、新しく借りる本を選んだ。
 図書館の書架の並んでいるスペースの向こう側に自習コーナーがあって、高校生くらいの男女が何かの学習に取り組んでいる。中にはつっぷして眠っていたり、携帯端末をぼんやり眺めていたりする者もいる。何も学ばないなら、こんなところに来なければいいのにと、リョウヘイはそんなことを思った。そして、読み物の本をいくつか借りて、図書館を出た。
 それから、炎天の通りをいくつか渡って、町営プールへ向かった。
 更衣室でリョウヘイが着替えていると、たくさんの視線が背中に感じられた。リョウヘイがそれとなく周囲を見回すと、知った顔はひとつもない。多分、隣町の子どもばかりなのだろう。その、隣町の子ども達が、リョウヘイを値踏みするように見ていた。「あいつ、ひとりか?」と、誰かがささやく声がする。リョウヘイは聞こえないふりをして、プールサイドへと出て行った。
 湾の町の海水浴場よりいくらかましではあったが、町営プールもなかなかの混みっぷりだった。プールの中にもサイドにも人がたくさんいる。ベンチの所には日差しを避けた老人がひとりいて、きっと誰か子どもを連れてきたのだろうけど、その子どもが誰だか分からないので、まるでひとりぼっちのようだ。よく焼けた筋肉質の腕が、ちょっと祖父に似ているとリョウヘイは思った。
 リョウヘイは軽く水慣れしてから、クロールで泳ぎはじめた。まずは飛び込み台の方から反対側へ。端まで来るとリョウヘイはターンして、今度はスタート地点に向かって泳ぐ。そして、またターン。
 リョウヘイの泳ぎ方は、傍目にはトレーニングのように見えたかもしれない。リョウヘイにそのつもりはなかった。ただ、冷たい水に浸かって泳ぐのが心地よく、泳ぎをやめるタイミングをつかめなかったのだ。しかしターンを繰り返す度にリョウヘイの肌は、流れる水に洗われてなめらかさを増していく。まるでイルカかクジラにでもなったかのような気がした。水をかくために振り上げた腕がたてる水しぶきの音が遠のいて、耳が切る水流の抵抗は限りなくゼロに近づいた。リョウヘイは、ここは静かだ、と思った。本を読んでいて、物語に引き込まれているときの感覚に近いような気がした。そういうときに、文字と意識の境界がかぎりなく曖昧になるのと同じように、リョウヘイの肌は完全に水に馴染み、息継ぎをせねばならないことがこの上なく不自然にさえ感じられた。
 リョウヘイは、自分に並んで泳ぐ人影に気づいた。息継ぎする時に首を振ると、いくつかの人影がリョウヘイにぴったりと並んでいる。体格からすると、リョウヘイと同じくらいの子どもらしかった。さっき、更衣室で「あいつ、ひとりか?」と言った奴かもしれない。リョウヘイがターンをすると、あちらもターンをし、リョウヘイに追いついた。いや、単に追いつこうとしているのではなく、追い越そうとしている。彼らの挑むように必死な腕の動きから、リョウヘイはそれに気づいた。
 ならば、とリョウヘイの心に、小さな火が点った。相手が泳ぎの何を競っているのかは知らないが、勝負を挑まれて負けるわけにはいかない。むこうは、隣町の子どもにしてはいい泳ぎをしている。泳ぎのスピードでは相手が少し上回るようだが、ターンが下手なので、往復のタイムはそう変わらないだろう。それなら、いつまで泳ぎ続けられるかが勝負だと、リョウヘイは考えた。先に疲れ果てた方が負けで、その時に泳ぎ続けていた方が勝ちだ。
 相手は、二人、いや三人だ。リョウヘイのいちばんそばを泳いでいる奴がいちばん泳げるが、そのむこうにもう二人いる。何人いようが、知ったことか、とにかく泳ぎ続けた者が強い。リョウヘイはそう考えた。ほら、一番向こうの奴はさっそくプールの底に足をついて、もう勝負をやめてしまった。とにかく自分が泳ぎ続けていさえすれば、それがすべてだ。
 何度目かのターンで、もう一人が足をつく。最後に残ったのは、リョウヘイの横にぴったりとついて泳いでいる一人だけだ。リョウヘイより少し体格のおおきなそいつは、体つきがトモキによく似ているような気がする。さっきまで綺麗なクロールで泳いでいたが、いつの間にか平泳ぎへ切り替えていた。それに気づいてリョウヘイも、泳法を平泳ぎにそろえる。時間勝負にクロールでは勝てない。
 何往復したか分からないが、さすがにリョウヘイの両肩が重くなり始めた頃、相手が足をついた。相手が水面の上で「ちくしょう!」と叫んで水面を悔しそうに殴る音を、リョウヘイは水中で聞いた。
 それからまだしばらくの間、リョウヘイは平泳ぎのまま泳ぎ続けた。どれくらい泳いだのか、もう分からない。一度休んでしまったら、もう再び泳ぎ出せないような気がした。だから、このターンのリレーを止めたらもうプールを出るのだと決めて、いつまでもいつまでも泳ぎ続けた。
 プールの閉園を知らせる、「蛍の光」が流れはじめてもリョウヘイはまだ泳いでいた。監視員が注意する声が何度か聞こえたが、それでも平泳ぎを続けた。もう終わりだと思っても、泳ぐ力はどこからともなく湧いてきて、その力が一体いつ尽きるのか、そのタイミングをリョウヘイは見てみたかった。しかし、ついに「蛍の光」が聞こえなくなって、リョウヘイはプールの中へ降りてきた監視員に「もう終わりだよ」と肩を掴まれ、やっと足をついて立ち上がった。
 ぜいぜいと荒い息をまき散らしながらあたりを見渡すと、あの老人がちょうどプールサイドを出て行くところだった。その背中が見えなくなると、プールの中にもサイドにももう人影はなく、恐い顔をした監視員とリョウヘイだけがプールのど真ん中にいた。

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