マノーリンはかもめの夢をみる(1/10)
ツバメの子が巣からいなくなると、海と空の青はいっそう濃くなる。それは、立ち上がる入道雲の白さのせいだ。その空の高嶺を、群れから離れた一羽のかもめが駆け上がっていく。空には銀でできた太陽がぎらついていて、かもめは、その凍って輝く金属の球にふれたあと、くるりと宙返りして、今度はまっしぐらに雲の尾根を駆け下りはじめた。すると、南風を切り裂いて急降下するかもめの翡翠色の瞳には、浜であそぶ少年たちが映っている。
「あのかもめ、魚食べないのかな」
甲高い声でリュウが言うと、トモキは「そんなわけないだろ」と笑ったが、リョウヘイは「そうかもよ」と空を見上げた。すると、トモキが「はあっ?」と眉をよせてリョウヘイを睨む。
「食べなきゃ死ぬだろうよ。死んだら飛べないぜ」
「食べるためだけに生きるな」
リョウヘイは顔をつくって、クラス担任のガッキーが時々説教くさく言う台詞の口まねをした。リュウは、ガッキーのことなど知らないくせに、リョウヘイの口ぶりが面白くてあははと笑う。でもトモキは舌打ちをしてそっぽを向いた。
「つまんねえ」
冷たい調子の声を、潮風が吹き払った。潮風は、リュウのTシャツに裾から入り込んで、体を大きく膨らませる。
「見て、俺、マッチョマン!」
リュウは細い腕を鉤型に曲げて力こぶのポーズをとり、「俺は強いぞーっ!」と叫んだ。まだ声変わりしないリュウの細い声は、風に吹きさらわれ、空高く舞い上がっていった。
あのかもめは、まだ群れから離れたまま、岬の灯台のあたりをぐるぐるまわっている。少し遠く離れた水平線上には昼網の漁船が出ていて、カモメの群れがおこぼれの鰯を狙って集まっていた。その様子は、砂に落ちたハッカ飴にむらがるひとむらの小蠅のようにリョウヘイには見えた。
三人は町のご近所で、幼なじみである。リョウヘイとトモキが小学校の六年生で、リュウは四年。特別な理由がなければ毎日、一緒に登校して、一緒に下校している。そしてやはり特別な理由がなければ、そろって下校する時にはこうやって浜で遊んで帰るのがいつもの習慣だった。だから、一学期の給食がもう終わった半ドン授業の正午、三人の腹はぐうぐう鳴っているというのに、彼らはいつもの習慣どおりに、教科書の入った鞄を県道のバス停のところに投げ捨てておいて、こうやって浜をぶらついているのだった。
浜は静まりかえって波の音しかしない。海水浴場の準備のために先月末から始まった海の家の組み立ても、今は昼休みだ。どこか違う町からやってきた大工がひろける弁当の匂いが時々風にまじる。
「なあ、もう帰ろうぜ」
そう言ってトモキが自分の腹を撫でたが、リョウヘイは首をふった。
「海水浴場がオープンしたら、もう泳げないんだから、いっぺんだけ、泳ごう」
すると、わっと叫んでリュウが海に向かって駆けだした。リョウヘイがそのすぐあとに続き、少し遅れてトモキが追いかけた。
波打ち際まできて三人は靴を脱ぎ、ざぶざぶと波の中へ入っていく。
「もうぬるいな」
「足のつくうちだけさ。ほら、ここはもう冷たい」
「あんまり冷たいのは嫌だ」
「なら、浜で見てろよ」
「嫌だ、泳ぐ」
リュウとトモキが怒ったような口調で言い交わした。リョウヘイは、二人が話しているを最初、入道雲を見上げながら聞いていたが、突然波を蹴り上げて深い方へと走り、どぶんと青の濃いあたりに身を投げた。すると、それを見たリュウとトモキが、わあっと叫びながら一緒に波間へ飛び込む。
リョウヘイはもう、つま先でつんつんと飛び跳ねつつ、「さあ泳ぐぞ。行こう」 とクロールで泳ぎ始めた。
波打ち際と防波堤の、ちょうど真ん中あたりまできた頃に、リョウヘイはいちど止まって、立ち泳ぎで水面に顔を出す。浜の方を振り返ると、リュウとトモキが平泳ぎで向かってくるところだった。
「リョウヘイにいちゃん、早いよ」
「クロールは疲れるから、平泳ぎにしろよ」
二人はのんびり泳ぎながら言った。去年の秋にやっと防波堤まで泳げるようになったばかりのリュウは、言いながらあっぷあっぷしている。
リョウヘイはその場で二人が追いついてくるのを待って、三人がそろってからまた泳ぎ始めた。今度は、平泳ぎで調子をあわせた。平泳ぎだと遅いのでかえって疲れるような気がする。リョウヘイは本当はクロールで防波堤まで泳ぎたかった。リョウヘイにはそれができて、自慢でもあった。それでもリョウヘイは、ちょっと苦しそうなリュウに寄り添って泳いだ。リュウは、今にも沈みそうであったが、助けを拒むようにまっしぐらに前を向いて、青黒い水を吐き出しながら泳ぎ続けた。
リュウは、なんとか防波堤まで泳ぎ切った。コンクリートの壁にしがみついたリュウを、リョウヘイとトモキが防波堤の上から引っ張り上げた。
防波堤からは、学校から役所、漁協、それからリョウヘイたちの家のあたりまで、県道に沿って細長い町が全部見渡せた。そして振り返ると、岬の先に真っ白な灯台が眠ったようにたっているのが見える。灯台のあたりでは相変わらず、あの一羽のカモメが入道雲の尾根を上ったり駆け下りたりしている。
リョウヘイは、灯台の白さに目を細めていた。
「なあ、あの灯台・・・あそこまで泳げるかな」
リョウヘイが灯台を指さしながら言うと、リュウが「行けるよ」と笑い、トモキは「やめとけよ」と厳しい声で応えた。トモキは、リョウヘイならやりかねない、と思ったのだろう。
「もしそんなことしたら、叱られるぞ」
「でも、リョウヘイにいちゃんなら行けるって。俺も一緒に泳ぐよ」
「行けても、行っちゃだめなんだよ。知ってるだろ。リュウもリョウヘイも、つまらないこと考えるな」
分かってるよと肯きつつ、しかしリョウヘイは「行けそうな気がするんだけどなあ」と残念そうに呟く。するとその声が聞こえたのか、トモキは「いくらリョウヘイでも無理、無理。案外遠いって」と首を振った。
リョウヘイの腹が、ぐうっと鳴った。すると、トモキとリュウの腹も、こだまするようにぐうっと鳴る。
「さあ、飯食いに帰ろう」
今度はトモキが先に飛び込み、それにリュウが続いた。リョウヘイは、まだしばらく灯台を眺めていたけれど、リュウの危なっかしい泳ぎが気になって、やっと自分も海に入った。
リョウヘイは、リュウに寄り添って平泳ぎで泳いだ。湾の真ん中あたりまで来た時、ふと呼ばれたような気がして立ち泳ぎになり振り返ると、さっと世界が灰色になった。リョウヘイは目を細めて見上げる。さらに立ち上がっていく入道雲のてっぺんが、銀色の太陽にふれてじゅっと溶け、薄雲の蒸気が空を濁らせていた。
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